調査研究

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2005.08.15
部会・研究会活動 <識字部会>
 
識字部会・学習会報告
2005年5月18日
被差別部落における女性と唄
聴き取りとその教材化にむけて

多田 恵美子(大阪キリスト教短期大学非常勤講師)

 今年度最初の部会は、部落の識字学級のなかで自らの生活文化を掘り起こして、それを教材として活かしていこうという活動が生まれ、それが部落の女性たちのエンパワメントにもつながることへの期待をこめ、多田恵美子さんにご報告いただいた。大阪府内の部落で女性たちが歌い継いできた唄の数々と、そこにこめられた当時の生活と思い、唄と語りの聞き取りに関わってきての多田さん自身の思いを語っていただいた。以下、概要を紹介する。

 幼稚園の頃から軍国歌謡・軍歌しかない時代に、白いご飯の弁当もピアノもまるで想像もできない別世界の憧れだった。働きだして自分でピアノを買い、音楽大学のピアノ科に進んで音楽関係の仕事にも就いたが、何かが違うという感覚にとらわれはじめて、楽理科にも入ってみた。卒論のテーマに困ってひとり旅に出た北海道で、アイヌ民族である秋辺得平さんに会って自分には自分自身の音楽がないことに愕然とし、その後、差別と闘う文化会議を通じて泉州の盆踊りに足を運びはじめた。

 泉州各地の盆踊りを訪ね歩いて、気に入ったのはすべて部落の盆踊りであることを後で知ることになるが、当時は音楽にしか興味がなかった。

 1975年頃から聞き取りにまわり、77年に録音した信太山の盆踊り、樫井の三夜(さんや)、貝塚東の盆踊りの音頭を実際に聴いてもらいたい。信太山の場合は、音頭も太鼓も男、詩型は古い七七七七型(七七七五型は近代のもの)。樫井では音頭は女で、太鼓打ちがひと盆に200足も下駄を割るほど激しい。貝塚東の盆踊りには「ヨホホイ」と「クドキ」があるが、太鼓がない。盆踊りの翌日から次の準備が始まるといわれる仮装を特徴とし、大阪府無形民俗文化財である。部落の若者の楽しみは、女が夜なべ仕事をする所へ男が遊びに行く「夜遊び」と盆踊りだけだったといってよい。年に三日の楽しみのために男が仮装の準備をした背景には、部落の男に仕事がない現実があった。見物人が帰ってから「わがの盆踊りをする」という、その踊りは激しい。

 唄とともに録音されていた語りを聴いて、唄にしか向いていなかった関心が、唄を聴かせ、語ってくれるおばあちゃんの人生にも向かうようになる。

 盆踊りのほかに唄などない、と厳しい表情で言ったおばあちゃんが、部落差別を知らない聴く側の純粋さに、守り唄を歌ってくれた。子どもを寝かせるための子守歌と違い、子守りをさせられる部落の「守り子」たちが守りの辛さを少しでも紛らわせようと、5、6人から10人ぐらいで連れだって村なかを回りながら大声で歌って歩いた。いろいろな立場の守り子のなかでも守り奉公は、6〜12歳頃までの女の子が、親に渡る前金と引き替えに親方の家に住み込む。朝は8時に(早い場合は5時という例も)起き、全員が朝食を終えて最後に食事にありつき、片づけを終えると子どもを負ぶって川まで洗濯に行かされる。洗濯を終えると守り仲間と村なかを歌い歩き、寺の境内で子どもを下ろして遊んだという。親方や、酒屋、米屋などの金持ちの家の前で、彼らをからかう「あて唄」を歌うことはうっぷん晴らしであり、黙認された。この守り奉公は江戸時代に始まり、敗戦後まで残っていた。

 盆と守り唄がなければやってこられなかった、というのが幼い頃からの部落の女性の生活だった。部落の周辺では当時80歳の人でないと知らない守り唄を、部落では60歳の人でも知っていた。それは、差別ゆえに貧しく厳しい生活が部落では周辺地域より20年も長く続いたことを意味する。泉州では紡績工場に女工として働き口ができても部落の娘は雇われず、口減らしに守り奉公に出される状況が続いたのである。

 その他にも、子どもの誕生に際してお宮参りをする代わりに「名つけ唄」というのがあった。部落外にある神社に寄付はしても参ることが許されなかったことから、村人にとっては抵抗歌だったと考えられる。

 仮装には変身の思想がある。現実の閉塞感を変えられる見込みがないときに、自らを解放する意味があった。三夜にみられる激しさは、差別へのうっぷんと怒りを表す。音楽があるから踊れるという音楽のエネルギーは、盆踊りから暴動になることを恐れた藩主に三夜を禁じさせた。それに対する農民の怒りは部落に向かうよう仕向け、太鼓は部落にはないのだからと、なだめようとしたのではないか。

 部落のおばあちゃんたちはまさに歌うことによって生き抜いてきた。おばあちゃんたちが唄をもっていて自分になかったのは、学校教育によって自らの唄を捨て音楽=西洋音楽としたから。私たちは学校教育によって音楽を奪われ、おばあちゃんたちは差別によって文字を奪われた。音楽を育んできた風土・文化を無視して音楽だけを取り入れるのは、西洋に対しても失礼だと思う。1975〜92年までの500人の聞き取りのなかで、差別を受けた経験や辛さを語ってくれることはあっても、差別や運動を知らない私を責めることは一度もなかった。体験からくる確かさ、人間を尊敬することを、そこから学んだ。奪われなかった唄で文字を取り戻す――おばあちゃんの唄と生き方を識字の教材にできないだろうか。

(文責:熊谷 愛)