(1)初めての「学習者」と接するために
「今晩は。さて何から勉強しましょうか。」「ひらがなは、わかりまんねん。漢字を教えてほしいんですわ。」このような対話から始まる場合「学習者」の言葉を以下のように受け止めるのがよいと思います。「学習者」は、単に漢字の読み書きだけを教えてほしいと考えているのではない、と。したがって、小学生が学習しているような「漢字練習帳」などに機械的に単一漢字を書く勉強をつづけていては、いずれ行き詰まります。
すでに成人し、「熟年」と言われる年頃になって、やっと地域の識字学級にたどりついた人が、「漢字を教えてほしい」と訴えるとき、その言葉の裏には、講師の想像力をはるかに超えるものがあるのだ、ということを心に銘記しておいて欲しいと思います。
たとえば、次のような切実な願いがこめられています。
「年賀状をもらっても、その返事が出されへん。せめて、年賀状くらいは書けるようになりたい。」「40年も会ってなかった妹から手紙が来ましてん。何とか読めたけど、返事が書かれへん。先生。手紙の書き方を教えてください。」「新聞に入っている折り込み広告のちらしが読めるようになりたい。その日、その日の安売りの品物が知りたい。」
「街でもらったパンフレットを見て、きれいなあ、と思うけど、そこに書いてあることがわかれへん。わかったら、楽しいやろうなあ、と思う。」「役所で、住民票をとる時に、他人に聞かんでも、自分一人で書きたいなあ。」「新聞が読めるようになりたい。」
これらの他に、まだまだ、多くの要求や願望が心のうちに秘められているのです。つまり、これらの総和が「漢字を教えて」という表現になっているのです。換言すれば、それは、差別によって奪われた文字文化を取り戻したい、という強い願いなのです。したがって、初めてかかわった「学習者」が何げなく、ぽっんと語った一言の中には、万感の思いと、多様で深い意味合いがこめられているのだということを、認識しなければなりません。ここのところで「講師」と「学習者」との本当の出会いがあり、学習がはじまるのです。さらに、心がけておきたいことがあります。それは、「共に学ぶ」という姿勢・態度で接することです。何よりもまず「講師」になった者は、「教えてやろう」という心を抑え、「共に学び、共に成長し、共に人生を豊かに生きよう」という心をもち、ここを出発点として対応してほしいのです。そのうえで、「学習者」は今、とりあえずは、何を知りたいのか、何を身につけたいのか、ということを、明確につかんでほしいと思います。そして、無理なく、ムラなく、むだのない学習プランを積み上げていくことが大切です。
さらに、識字の学習は、被差別の人生を生き抜いてきた「学習者」と、「講師」が初めて、人間として出会い、お互いの「こしかた・ゆくすえ」について語りあうところから始まります。ここが大事なところです。それは、まさに識字としての学習が成り立つか否かの試金石ともいえます。このことを成功させるためには、「講師」たるものが、まず自分が何者であるかを赤裸々に語らねばなりません。そして「学習者」との人間的信頼関係を結ぶことを、第一にして取り組んでいくことです。「講師」は、ここで自己の、識字に関わる基本姿勢が問われます。そこで初めて、「学習者」の信頼を得ることができるのです。これらの“語らい″を通して「学習者」の“語り”を引き出し、何を学びたがっているのかについて、その本音のところをつかむことができます。こうして初めて、学習内容の選択と提供、そして合意へと進み、学習活動が始まっていくのです。また、学習計画も立つていきます。
学習方法としては、対話を基本にすえて、あくまで「学習者」のテンポに合わせて進めることが肝要です。これと逆に「講師」の側で、あらかじめ進度を決め、そこへ追いこむようなことをしてはなりません。そんなことをすれば、「学習者」は間違いなく来なくなつてしまうでしょう。「講師」の側から、何かを働きかけていくものがあるとするならば、それは、唯一「書き、綴る」ことです。ただし、この営みは、学校教育において取り組まれる作文教育の入門期にあたる「先生、あのね‥‥・」で始まる口許法、つまり、おしやべりをも含んだものであって、いきなり紙とえんぴつを渡して「さあ、書きましょう」と、書くことを強制することではありません。時機をみて、その時の状況や行動を具体的に思い出させるような質問(「その時、誰がいた?」「いくつぐらいの時?」等といった)をしつつ、意図的に働きかけていきたいものです。うまくいけば、「学習者」の学習意欲を、おおいにかきたてる効果があります。
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(2)新しい「学習者」の発掘
この課題は、識字運営委員会で、しばしば話題にのぼるものです。しかし、現状では、なかなかうまくいっていません。その理由の一つは、現在通っている「学習者」の中で欠席が続いている人を、どう呼び戻すか、ということに追われて、新しく「学習者」を発掘するまでにいたらない、ということです。実際に会って呼びかけても、「今さら、この年になって、字なんかいらん」「はずかしい」「しんどい」という返事が返ってきます。とくに高齢者には、こういう反応が多いのです。しかし、こういう人びとこそ、識字を必要とする人びとです。それでは、どうするのがよいのでしょうか。基本的には、今通ってきている学習者がどれだけ楽しく生き生きと学習しているかが大切です。そのことをふまえたうえで、いくつかの取り組みを示してみましょう。
一つには、スーパーでの買い物の時や銭湯で出会った際に意図的に言葉がけをする。
二つには、日常生活でよく知っておりつきあいのある人と、担当者もしくは講師がチームを組み、家庭訪問して誘う。しかも、時機をみて繰り返し誘いに行く。
三つには、目立ちやすい場所にポスターやステッカー(手作りがよい)を貼る。
四つには、識字に関するイベント(作品展示・発表・祭り)を企画し、対象としたい人を招待する。いずれにしても「識字って楽しそうやなあ」ということが実感できるように配慮して取り組むことが大切です。
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(3)ベテランの「学習者」と接するために
「ベテラン学習者」像なるものを一応挙げてみます。
- 経験年数が5年以上になる。
- 教室での学習はもとより、識字に関わる会議・集会・イベント等によく参加し発言・発表もする。
- 人前でしやべることや、文章を書くことに慣れている(少なくとも、おっくうがらない)。
まだ挙げることができるかもしれませんが、以上のいずれかに該当する人に出会った時、どう対応していけばよいのかについて書いてみます。最初の出会い方の大切さは、初めての「学習者」との場合と変わりません。肩の力を抜いて、自然体で臨むことが肝要です。何しろ相手はベテランですから心配しなくても、どんどん語ってきてくれます。お互いに相手の人物を早く知りたいのですから、おおいにしやべりあったらよいのです。「講師」が自分の「こしかた、ゆくすえ」について語ると大変喜ばれるし、親近感も増します。最初から、シヤカリキになって「教授」する必要など毛頭考えない方がいいでしょう。また、自分がいかに熱意をもって識字に取り組もうとしているかなど、アピールしないことです。相手はベテランです。コトは裏目に出ることが多いですから。学習はかなり進んでいるし、自学自習の方法も、その人なりのパターンで身につけています。「講師」は、「学習者」の学習ぶりを見つめていればよいのです。時に応じて質問がとんできますから、それに対しては、素早く的確に対応していくことです。
一方、いかにベテランといえども、過去の長い被差別の歴史を背負ってきた人でもあります。我々が、幼少期から、学校教育体系の中で身につけてきた、基礎的な知識や一般的な概念が保障されないままに成人してきた人です。生活レベルでは、「講師」をはるかに超える知恵・カン・コツを身につけています。しかし、9年間という「義務教育」が満足に保障されなかったことへの口惜しさと、同時に、欠落している知識・概念の体系に対する憧憬の念も強いのです。漢字一つとっても、その習得にあたっては、細部にわたるまでおそろしくこだわる人が多いのです。たとえば、筆順・画数・点画・折れ・曲がり・はね・とめ等について、一つひとつ聞いてくるし、文章の書き方についても同様です。数の認識・社会・自然の認識についても同じです。この点においては、まさに「講師」が識字者側の人間として、指導性を発揮すべきところです。柔軟でしかも誠実に対応していかねばなりません。しかし、漢字を無理に教えるということは、さけるべきでしょう。
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(4)なぜやめていくのか
一つの体験談を示してみましょう。筆者が識字の「講師」となって一年目のことでした。当時、ほぼ同世代の男性「学習者」にかかわりました。私は持ち前の情熱にまかせて、相当意気込んで対応していきました。「とにかく、生い立ちを書きましょう。漢字はそのつど聞いてください。」と言って、400字詰の原稿用紙を渡しました。そして、「先ず、小さい頃のムラの様子や家族の様子やできごとを思い出して、くわしく書きましょう。」と言いました。「へえ。そんな殺生な。」と言った彼は、それでも、何とか鉛筆をなめなめ原稿用紙に向かいました。安心した私は、「用字・用語辞典」を手元に置き、じっと彼を見つめていたのです。彼は書いては消し、消しては書くといった様子で、かなり苦しそうでした。私は心の中で、(これでいい。これこそ学習の出発点。この苦しみを味わい、乗り越えてもらうことが大事や。)と思い込んでいました。彼はとにかく、2時間近くかけて、2枚800字を書きあげたのです。「よく頑張りましたね。来週は、この続きをやりましょう。」「ああ、きつかった。そんなら、さよなら。おおきに。」こんな会話でその日が終わりました。
次の週、そして、その次の週と彼は来ず、とうとう来なくなってしまったのです。担当者の話によると、彼は、その年の支部大会で執行委員となり、多忙で来られないのだということでした。(それでは、仕方がないなあ。)と私は思っていました。ところが、それから十数年後、支部長となった彼が識字学級の開講式で挨拶し、その話の中で次のような一節があって、私は愕然としました。「私は今から十年程前に、受講生として勉強しに来たことがあります。しかし、一ぺんだけで辞めました。それは私としては字をあまり知らんので、字を教えてもらいたかったからです。ところが担当された先生から、いきなり作文を書けと言われて困りました。字知らんから来てるのに、いきなり作文なんか書けるかいな、殺生やと思ったのです。それつきり行かなくなりました。支部の仕事で忙しくなったのもありますが、こんなことだったんです。どうか先生方、熱心なのはええけれども、一人ひとりの生徒の思いをよくくみとってやり、何を習いたくて来とんのか、よくよく聞いてやってください。お願いします。」会場にいた私は、支部長の話をうつむいて聞いていました。「講師」としてのまじめさや熱意は当然なくてはなりませんが、識字は、成人一人ひとりの深い思いや要求に根ざし、十分その意向をくみ上げて、無理のない学習内容と進度、そしてのびやかな計画にもとづいて進めなければなりません。「学習者」にやめられないように最大の配慮をもって取り組んでいきたいものです。
もう一つ、過ちの例を紹介します(教訓として)
出席がとどこおりがちになっていた女性学習者の家庭訪問をした結果、本人の体調が悪いとのことでした。そこで私は、当分の間,家庭に入って、そこで学習することにしました。本人も、これで学習が進むと言って喜んでいたので、私もこれでよいと思い、学習を続けていました。ところがある場所で、本人も一緒にいる時に、このことを支部の役員に話したところ、「あんたがそんなことをするから、生徒が甘えて、会館に足を運ばんようになるんや。識字は解放運動やで。週1回のことや、歩いて5分もかからんのに、来ささなあかん。」と、こっぴどく叱られました。後で、本人がそっとそばに来て、「先生ごめんな。私のために怒られてしもて。」と言いました。そして、次の週から、がんばって来るようになったのです。識字は、本人の切実な学習要求を充足させることも大切ですが,もう一方で、ともに学び、仲間作りを進めるという集団形成と、解放運動を担っていくんだという自覚を育てる場でもあるのです。当時の私に欠けていたのは、この自覚でした。