ナレーター
福岡にはじまって、みるみるうちに全国に広がっていった識字運動。住吉で輪読会が生まれたのは、1966年7月でした。あれからすでに18年たちました。
40歳、50歳になってから字を覚えなければならない−−そのこと自体がもうこのうえもない差別なのだといことも、どうして小学校へ行くことができなかったかということも、一字一字覚えていく中でわかってきたのです。そして、差別してきたものに対する怒りが力強い解放運動へとかわっていきました。
わたしたちは、常に識字運動のもつ意義を原点にたち帰ってたしかめあいながら、いかなる困難もうちやぶってこの火を燃やし続けていきたいと思います。
こんな私たちの思いや差別の現実を「解放のオガリ」として構成しました。聞いて下さい。
女A 「1年生になった時のこと思い出したら、今でも腹が立ってしょうがないわ。入学して2日日やった。朝礼のあと先生が
先生 『教室へ入るぞ。みんな手をつないで。』
女A と言ったのに、私だけ誰も手をつないでくれへん。その時、誰かに『東村くさいぞ去』と言われ、ものすごく腹が立って相手をなぐってしまった。それを見てた先生は、何も理由も聞かんと、私だけ、
先生 『廊下に立っとけ。』
女A こんなこと何度かあって、だんだん学校へ行くのがいやになってな。」
女B うちも、学校のこと思い出したら何ぼでもあるで。うちは四畳半と三畳の二間しかないとこへ家族が9人も住んでいたやろ。勉強するよゆうもあらへん。宿題どころかうちへ帰ったら小さい弟や妹の子守ばっかりや。学校へ行って先生に、『宿題忘れました。』言うたら。
先生 『廊下へ立っとけ。』
女B 「いつも廊下へ立たされてんのん地区の子ばっかりや。」
女C 「給食もそうや。貧乏でお金持って行かれへんから『忘れました』と先生に言うと、
先生 『何、忘れた。今すぐ家へとりに帰ってこい。』
女C 「それっきり学校へ行かへんかった。」
女B 「うちは、みんなが給食を食べている時、家へ帰っても何もあらへんから、運動場のすみで昼寝して時間のくるのん待ってた。昼からはお腹がすいてグーグーなるし、勉強にも身が入らへん。そんな時、何でうちらだけこんな淋しいみじめな思いせんならんねと親を悼んで一人で泣いたこともようあったわ。」
女A 「私は、これらのことを思い出すたんびに、先生がもっと家のことや私たちの地区のことをわかってくれたらなあと思うたわ。できる子だけ教えたらよいということでなく、学校へ行けなかった子ども、学校へ行っても勉強がわからない子どもこそわかるように勉強を教えてくれるのが本当の教育とちがうか。」
ナレーター 学校へ行くよりは働きに行く方が生活が楽になると、小学校へ行っても、中学校へ行っても家の手伝いや子苧り、夜遅くまでの内職の手伝いで授業中居眠りをする子も多くいました。その結果、勉強が遅れ面白くなくなって学校も休みがち。そのまま働く子どもも多くなっていきました。しかし、その職場さえ安心して働ける場所ではなかったのです。
女D 「小さな町工場で働いていた時です。朝、電車に乗り合わせていた同僚が駅から工場に着くまで肩を並べて歩くどころか、朝のあいさつにも答えてくれないのです。何かいやなものにでも触れるような態度でさっさと行ってしまいました。こんなこと、が何日か続いたある日、『私に悪い所があればみんなだまっていないで言うて下さい。』とたまりかねて聞きました。それでもだまったままです。その時です。『何か知らんけどあんたなんかおらんほうがええねん。』と、まるで私を人間でないかのごとく差別されたのです。」
男A 「私の場合は、店の主人から、『電報を打ってきてほしい。』と言われた時、字の読み書きができず、人に聞くのもはずかしく、自分で打つこともできず、とほうにくれたこともありました。また商品についているラベルのローマ字や漢字も読むことができず、店の表にも出られなくなり、しまいにはあいつはダメな男やと決めつけられ、店にいづらくなってとうとうやめてしまいました。そして、字の読みきができないため、その後も職を転々とかわっていきました。」
女D 「私たちの地区の近くの工場では、私たちが働かなければ生活できないことを工場主がよく知っていて安い賃金で雇い入れ、私たちも安い賃金だとわかっていても誰も文句一つ言えず黙って働くしかありませんでした。」
ナレーター 冷たい同僚の差別の目にさらされる中で職を次々にかわっていった人、字の読み書きができないため、くやしい思いをした人、食べていくために安い賃金でも働かなければならなかった人等、私たちの苦しみは一通りではなかったのです。そんな中で、職場で知り合った男性と恋をして結婚した彼女は訴えます。
女E 「夫は地区外の人です。私たちはお互いに好きになり、結婚を考えるようになりました。夫の親は私の籍を調べて、「部落民」であることを理由に結婚に反対してきたのです。夫の兄も姉まで、『本人は良いが生活環境が悪い。』『結婚したら血の濁った子どもができる。』と言って反対しました。文字をあまり知らない私は、結婚して子どもができた時、子どもの教育をつける自信もなく、いっそう一人でいる方がいいと日頃から思っていたのですが、夫の強い支えもあって私たちは周囲の反対を押し切って結婚しました。結婚当初反対していた夫の姉が、ある日血液不完全という病気にかかりました。私は一生けん命看護しました。その時私は『部落民でないお姉さんでも血液不完全という病気になるでしょう』といいました。姉は初めて心から私に心からわびてるれました。
ナレーター 結婚に対する差別は、今なお根強く残されています。結婚はしても親類づきあいは一切ないという人、子どもができて家への出入りは許されたとはいえ、それは夫と子どもだけ。自分はいつも外で待たされていたと訴える婦人。このような歴史を一人一人が背負いながら差別を受けた苦しみ、文字を奪われてきた苦しみをかみしめて生きてきたのです。その中から、解放運動が識字運動が始まりました。奪われた文字を取りもどし、人間を取りもどすための永い闘いの歴史です。
女A 「識字へ来てから新聞の字が少し読めるようになったし、外へ出ても店の看板がすぐ目につくようになったわ。」
女B 「今、うちは識字学級へ来てほんまによかったなとしみじみ思てんねん。字を織ること、色々な知識を身につけることは、自分自身に自信が着くことや。」
女C 「何言うても悲しいことに、字あんまりわからへんやろ。織字へ来てから一字一字ていねいに先生が教えてくれるから、ものすごく嬉しいねん。」
女E 「子どもたちが心豊かな人間に育ってほしいと願いながらみんなと一緒に字を習っていたらこころがなごんでくるわ。」
女A 「やっぱり読み書きできんとあかんわ。むつかしいけどくじけたらあかんなあ。」
ナレーター 次に、いくつかの識字作品を紹介しましょう。米田サヨ子さんは、作品「年賀状」の中で、初めて書き、初めてもらった年賀状の喜びを次のように書きました。米田さん「ほんとうにうれしかった。このよろこびはわすれることができません。切手があたっても、かえにいきません。大切になおしておきます。少しも字がわからなかったころにくらべて、今ではしき字の日がまちどおしくなっています。これからもいっしょうけんめいに字をならって、差別をゆるさない世の中をつくるように、みんなといっしょにはたらいていき、がんばります。」
ナレーター こんな詩もできました。