私は一九四五年一月十八日、この生江に生まれた。私の家族は、四人ぐらしでした。私がまだ六つぐらいの時やったか、目の見えないお母さんは、妹を生んだ。その時は、たしかお父さんも元気やったが、家庭の中は、あいかわらず生活保護でその日ぐらしの生活やった。妹を生んだばかりのお母さんは、栄養がようないのかおちちが出なく、私とお父さんは、近所のおばさんにもらいぢちをしたことを今でもよう覚えてる。私が入学する時、お父さんは自分のことのように喜んでくれた。そのころ、今のような那肘もないので近所の子のセーラー服をかりて、ようやく入学することができた。今でも入学式のときのことよう覚えてる。学枚へ行くと、おなじぐらいの子が私の方をジロジロ見るんや。なんでゃろ?とふしぎに思ってたら、私の目が片方白いので、それでみんなふしぎがって、自分の親に「お母ちゃん、なんであの子の目エ、白いのん」 と聞いてるんや。実は私の片目は、赤ん彷のころ熱病で失明し、白くなってしまったんや。
親はその子の手を取って、「あっちへ行きましょう。」‥‥‥。その時私は、その二人のうしろすがたに、赤い舌をベエーと也して、「あほ。」といってやったんや。
ちょうど、私が小学枚三年生のころやった。日頃は元気やったお父さんが、地元の生江小学枚の創立記念日に、ふだんは全然飲まれへんお酒を「お祝いだから‥。」というて、飲まされて、たおれ、それから中風という病気で寝こんでしまったんや。
こうして、お父さんが寝こんだころ、眼の悪かったお母さんも、炊事をしていて、顔いちめんにやけどをしたんや。妹は、まだ小さいし、私は妹を背中におぶって、炊事、せんたくを見よう見まねで、一生けんめいやった。やけどをしたお母さんは、近所のおばちゃんに手押し車(板をひいただけの車)にのせられて朝晩、病院へつれていってもらったりしていた。お母さんは、夜になると「イタイ、イタイ、イタイ。」 と泣くし、妹は、お母さんのはうたいだらけの顔を見ては、こわいといって泣く日がつづく。長い長い一年やった。このころは、ほんまに近所のおばちゃんに世話になったと思ってる。
こんな中でも、つらい思い出は、雨降りの時やった。家の中は、あちこち雨もりはするし、入口には戸がないので、もうふをかけて…‥。せやけど、そのもうふも雨のために、ビショビショになって‥‥‥。私ら親子が、外へ出られへん状態がつづいたもん。夜中に大雨が降った時など、お母さんが、雨受けのしずくの音で気イついて、「弘子、雨やで。」という。寝ているお父さんの重たいふとんを妹といっしょに、よいしょよいしょと雨もりのしない所へ引っぱっていき、小さい妹と父を寝かせ、私とお母さんは、すわったままで、眠ったこともあったもん。そんな時、お父さんはきまってこういうんや。「すまんなあ、わしが寝こんだばっかりに。」と笑いながら、目にいっぱい涙をためて、まわらない舌でいうんや。父は笑い中風やったんや。お母さんは、「人間やから、いつかはいい日がくるがね。」と、よくなぐさめていたように思う。
それでも私は、小学枚は六年までちゃんといき、学技の授業が終ってから働いた。ほんまに、いろんな仕事をしたもんや。メガネのマーブルのゴムづけ(メガネの形をしたチョコレートのお菓子の両はしをゴムで止める仕事)。掃除機の口みがき。トランジスターラジオのハンダづけ。アメの袋の中に入れる乾燥剤入れ。ミシン会社の食堂の掃除。ハンカチづくり等々。
その一つのカンヅメ会社へは、年をどまかしていったこともある。そこではミカンの皮むき。コンペヤーベルトで流れてくるミカンをむくのや。小学生は使ってくれない。会社が罰金とられるから。それで背が低いが、中学生やと年をどまかして行く。そういえばミカンをよく家へ持って帰った。そのため長靴をはいていく。その長靴の中へ、、へミカン一杯入れて帰る。ポケットの中へ入れるとみつけられておこられるから…‥。長靴へ入れるにも技術がいる、ふみつぶしたらあかんし‥‥‥。うちら足は小さいが大きい長靴をはいてゆく。わりと入ったように思う。ハンカチ工場へもいった。一ケ月で、二千円位やったやろうか。このころ毎日毎日ためておいた鉄くずを売りに行き(一貫目が八十円ぐらいだったろうか)お金にかえてお米を買うたしにしたり、自分の好きな食べ物を買ったりもした。そんな夜「今日な、ためておいた鉄くず三百円あったで。」「そおか。お母ちゃんもなあ、目が見えたらいっしょに拾いに行くのになあ。」「かめへん。かめへん。うちは近所のおばちゃんといっしょに行くから。」と、また、つぎのたしにする鉄くず拾いのことを考え、どうにかこうにか過どす日もあった。
そのころ、ほとんどの生江の子らが働きにいっていた。働きにいって学絞休むから卒業証書だけはもらいにいったね。それで、他の生徒から「お前はこんなときしか来ないな。」といわれたことは一番こたえた。その時は、先生が後から証書持ってきてくれたけど‥‥‥。
こんなように学技の思い出もあんまりええことない。教室の座席も、私ら一番前やから、後の方から「目ッカチのおばはん、前の方、見えへんがな。」と鉛筆でつつかれたり…‥。私ら生活保護もらってる。それで、生保もらいにいくため月のうち、きまった日だけ休む。すると「お前何んで一日だけ休むんや、何かもらいにいくんか。」 といわれる。それで「うちらお金もろうてんね、それが何や。」とケンカになる。学絞の先生が、生保などで教科書をもってきてくれる。それで、他の生徒も生保とわかる。そんなこと他の子にいわれていじめられ、泣いたりする子もあった。私は気イ強いから平気やけど。
給食のとき、他の生徒から「お前ら、給食費渡してへんのに、よけい食うな。」 とよくいわれた。うちの地域の子らは、それいわれて、下向いて、みんなだまって食べているものも多かった。しかし、うちはちがう。うちは平気。「ああ食うたる!」という。うちの親はみてくれへんし、一人は病気でねている。だから「食うたらッ!パンもっと持ってこい。持ってこい!」 とやる。「お前食えへんのやったら、ここへ持ってこい!」と。机の上へ一杯つみあげてあるのをもって家へ帰る。カバンヘ入れて。それを家で炊いて食べる。他の子のなかにも「食うたらッ!」という子もいたが、よういわん子が多かった。だまって下向いて食べる子や、泣き泣き食べる子や……。
このころ、こんな学絞やったら、学杖へ行かんでも金もうけの方がいい。その方がなんぼためになるかわからんと、本当に思っていた。せやから、私らケンカばっかりや。勉強なんかしたことはないよ、本当に。まるでケンカするために学枚へきているみたいやったな。それで学技へ行くときも、今日はこんなこといったら、こういい返してやろうと思いながら行く。たとえば、男の子が女の強い子に 「あの子やったれ。」とそそのかす。それで、こっちへどつきにくる。こっちは一人。私は、それでいつも爪をのばしておく。いざとなったらひっかいてやろうと。ほんまに「ガッ」とひっかいてやる。すると親がそめ子をつれて家へくる。「お前とこの娘にこんなにされた。」 とどなりこんでくる。親はその前に、その子がどんなことをいったなんかは、全く知らないでいる。ほんまに、私ら、こんど何かいわれたりされたら、こっちは一人やし、と爪を磨いていた。だから、朝礼の爪検査のときは、いつも×印。それだけが武器やから。ハンカチは汚れているが、いつも持っているから○印。爪は小学枚二年から六年までいつも×印やったと思う。こんな学校生活やった。せやけど、仕事は何でもやったと思ってる。仕事のウデはあがったが、そのために、字は、いっ こも覚えれなかった。何かするときも、字イ書き−といわれても、書けないくやしさ!
しかし、今の子はかわいそうや。字は知ってるから、何でも試験やる。仕事の手が早いとか、人間がしっかりしてるとかでなく、字で答案さえかけたらいい、ということになっている。あの時分は、ウデさえきっちりなってたら何でもできたんやもん。「この子よう働.くで−、きてもらえ−。」と、それできまりやもん。今から考えて、あのころの私の生き方は、まちがってへんと自信をもっていえる。うちの妹と年は六つ違うけど、ものもらうのでも、たとえば、市場の券もらうのでも、妹は「齢ずかしい、いややわ。」「かっこわるい。」という。私は、「これおくれ。」と平気ガメツサが妹など若い子にないように思う。お金さえだしたらええかっこやというように思ってるみたい。「二度と踏ませない荊の道。」でなく踏ませんとあかんと思う。親が苦労させたくないという気持ちも問題やと思う。苦労をはね返す力と勇気が大切なのやと、しみじみ思う。私の考え、まちどうてんのやろか? 今から考えると、小さかったとはいいながら、私にも、父、母にも、あの頃、現在のように差別を見ぬく力が、少しでもあったら、差別、不合理な暮らしに対して強く問っていたと思うし、あのような暗い思い出はなかったと思う。
ちょうど、今から三年前の夏、子ども会夏季活動の給食調理の手伝いをきっかけに、その年の秋に、現在の仕事(解放会館職員)につくことができた。私は、身長一五〇センチ、体重四〇キロ、人からよく、小さいね、といわれるくらいの体。しかし、私はこの細身の体で、根かぎりせいいっばい生きてきた。家族のこと、仕事のこと、いまわしい学杖の思い出など、たしかに、つらいことは山ほどあった。けれど、時には、人からみて、ガメツクみえたかも知れないはど、ふてぶてしく、胸はって、ついことを一つ一つ自分の力ではねかえしてきた生き方が、今の私をつくっているように思う。私は、この生き方を大切にしていきたい。
今では、婦人部役員の一人として、毎日、識字や講習活動など解放運動にとりくんでいる。しかし、いそがしいなまけ者にならんよう常に身を引きしめてがんばっている今日この頃の私です。