調査研究

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部会・研究会活動 <識字部会>
 
識字部会
3.今後の識字施策に関わる提案

ここでは、部落を中心として、今後の識字活動のありかたに対する提案を大胆に行いたい。ぜひ、ご意見をいただきたい。

1.識字活動発展に向けて、行政の主体性を問いなおそう

 従来、識字は、学習者側からすれば、「差別の結果奪われてきたものを奪いかえす」という視点に立って進められてきた。このことは、行政側からすれば、「行政の差別性によって生み出された実態的差別を行政の責任において補償する」という考え方になる。この考え方を主として二つの観点から発展させる必要がある。

 一つは、学習目的、識字運動のめざすものは何かという視点である。「文字を奪いかえす」という論理は、国際的に見ても評価される重要な考え方である。しかし、この論理が運動的な視点だけにとどまっていると、教育や学習の論理として発展しにくくなってしまう恐れがある。たとえば職業教育につながる内容や自然認識に関わる学習、あるいは芸術活動などが従来識字運動に十全に位置付きにくかったことなども、「文字を奪いかえす」という基本的に正しい視点を、学習や教育の論理に立って豊かに展開できなかったために生じているのではないか。社会的立場の自覚を軸としながらさまざまな方向への自己実現を追求するという観点で、学習目的を組み直すべきではないだろうか。

 いま一つは、行政の責務という視点である。「行政による補償責任」というこれも正しい視点がじゅうぶん発展させられなかったために、あたかもすべてを行政が自分で行うのでなければ行政責任を果たすことにならないかのような考え方が見られた。識字講師としてボランティアを募ることなども、そのような発想によって否定されてきた。本当の意味での行政責任とは、真の意味での部落解放につながる施策を展開することである。たとえば、同和地区の内外をつなぐために、識字活動にボランティアによる市民の幅広い参加を追求することなどは、その一環としてきわめて重要であろう。行政の責務に関する議論をこのような観点から発展させるべきである。

 これら二つの方向性を具体化していくうえで、国際的に広がっている機能的識字という考え方や成人基礎教育という考え方を積極的に取り入れる必要がある。機能的識字とは、単に読み書きができるかどうかという基準でなく、複雑化・情報化が進む世の中に十分参加できるだけの生きてはたらく力のことである。また、成人基礎教育とは、読み書きだけではなく、対人関係の作り方や法律についての知識など市民として生活し、自らの権利を守るうえで必要な能力全般を育成しょうとする成人教育のことである。国際的には、識字(リテラシー)よりも成人基礎教育を重視する傾向が強まりつつある。

 なお、識字運動を以上のように学習や教育の論理から見直し、整理する観点が、運動としての識字のあり方の座標軸を弱めるものになってはならない。識字部会が意図しているのは、教育の論理から見直すことによって、運動としての視点と課題をいっそう明らかにすることである。けっして会館主導・講師主導の識字を求めるものではない。会館としての主体性が確立されることによって、運動側の主体性がさらに強まることをこそ期待したい。言うまでもないが、「『文字を知らない』といいきれる識字運動、解放運動をつくろう」(部落解放第六同全国識字経験交流集会、1993年11月)という原点を見失ってはならない。

  読み書きできないために小さくなるのではなく、学び闘っていることに誇りをもつ生き方と文化をつくりあげるために各支部が識字運動に責任をもたなければならないのである。この視点が全体的に確立しているかと言えば、必ずしもそうではない。その点で、中央本部や都道府県連、各支部の指導体制を再点検する必要があるのではないか。

2.隣保館(解放会館)の社会教育機能を強めよう

 部落内に建てられた隣保舘や解放会舘(以下、一括して隣保舘と記す)は、同和対策事業を総合的に進めるために創られた施設であり、その中には多様な機能が組み込まれている。このような施設の存在は、全国的に見ても国際的に見ても誇りうるものであろう。しかし、総合的であることが、かえって隣保舘の機能をあいまいなものにしてしまっている面があることも否定できない。住民の要求を受けとめるということばかりに追われ、自らの施設としての主体性を積極的に打ち出しきれなかった。また、職員の側から住民自身の自立への働きかけも十分行ってこなかった。これらの問題点がここに表れているのではないか。

 この問題点は、識字にも集中的に見られる。たとえば、はじめに述べたように「識字は解放運動の原点である」という考え方がある。これは部落解放運動の側からすれば貴重な指摘である。厳しい差別の中を生き抜いてきた

 人たちが自らの生いたちをふりかえって差別からの解放に目覚めていくことは、今後いっそう重視されるべきことであろう。問題は、行政や解放会館の立場からこの提起をとらえかえす姿勢が弱かったということである。「識字は隣保館事業の原点である」といった観点から諸事業を発展させていけば、隣保館の主催事業もいくらか違った展開になったのではないだろうか。

 たとえば会館職員の関わり万一つをとっても、識字は運動の課題という見方にとどまっている場合には、立場性がはっきりせず、運動関係者の要請を受けて行動するにとどまる傾向が強くなる。しかし、会館としての学習活動事業という位置づけがはっきりもてるならば、それに基づいて学習者や講師と接する傾向が強まるはずである。

 現在、社会教育主事をはじめ社会教育専門職員を置いた隣保館は全国的にはむしろ珍しい存在である。大阪市の解放会館などに限られるであろう。しかし、今後の隣保館の課題を考えるとき、社会教育専門職員の配置を検討することが必要となる。各地で実態に応じた要求を整理し、提出すべきである。(なお、隣保館のあるべき姿については、大阪市社会教育主事会の議論や自治労が自治研活動の一環として整理したものの中に貴重な参考となる意見がたくさん含まれている。

3.学校教員以外の講師を積極的に導入しよう

 すでに述べたように、部落の識字にあっては、学校教員がおもな講師として活動してきた。そのよさを活かしながらさらに幅広い人びとに参加してもらえるようなスタイルが必要である。そのことが、学級の活性化にもつながるであろう。そのためには、教師以外の講師を位置づけることが求められる。

 アメリカなどでは、成人基礎教育関連団体がボランティアのリクルートなども担当し、ボランティア講師のための手引書なども発行している。日本においても、渡日外国人を対象とする日本語教室ではボランティア講師が大きな位置を占めている。そうしたボランティアをめぐっては、たんに「安上がりの講師」として位置づけるのではなく、「ともに学ぶ」という姿勢を持った人が自ら成長するための機会として位置づける必要があるとされている。「教えようとする」人ではなく、「ともに学ぶ」という姿勢を持った人と接することによって、識字学習者もいっそう成長することが指摘されている。

 部落外の公民館などで市民全般を対象に開かれている識字では学校教員以外の講師が中心になって展開されているところが少なくない。そのような識字では、主婦・退職教員・OL・学生など多様な人びとが講師となって活動している。それぞれの人たちの人生経験がそのまま学級の資源として活用され、学級の識字活動をずいぶん幅広い豊かなものにすることに役立っているということができる。

  講師として奉加している人たちは、学習者として参加している人たちから人生について多くのことを学んでいる。それまで出会う可能性のはとんどなかった多くの市民同士が、識字活動を通して出会っているのである。こうした状況については、財政的に講師料を確保できないため、しかたなくボランティアに頼っているという面を否定できない。しかし、教師以外の講師を確保することによるプラスの効果は、なんとか部落の識字活動にも吸収してしかるべきではないだろうか。

 すでに、公募によって学校教員以外の講師を募集した部落の識字も出てきている。その経験によると、市の広報紙に数行で講師募集の記事を載せただけで、10人を超える方たちから連絡が入ったということである。そのうちの数人がすでに講師として参加しており、彼らが学級に新鮮な空気を送り込んでくれているという。

 教員以外の講師が入るにあたっては、講師集団の性格と役割が改めて問題になろう。大阪などの場合、部落が校区にある学校の教員が中心となって識字の講師を担ってきたが、それは、部落解放運動と教育との連帯を軸に、学校を含む地域全体の教育を変革しようとしてきたからである。この視点を外しては、講師集団としての責任が問われることになるであろう。

 学校教員以外の講師、とりわけボランティア講師の導入に対しては、‡@学校や行政の責任放棄につながる、‡A安いものは悪い、‡B同情融和になる、といった考え方から批判がある。このような批判には、それぞれ正当な側面もある。たとえばここでの提案は、学校教員を講師からはずすべきだなどと主張するものではまったくない。

 学校教員の専門性と責任をはっきりと位置づけたうえで、識字の輪をさらに広げていこうとするものである。

 しかし、ボランティア論などについては、まだまだ末整理な部分も多い。この提言への意見や批判をふまえて、論議を深め、識字の発展につなげるための工夫をすすめることが必要であろう。

4.受講生の多様な要求を受けとめ、実験的識字関連講座を開設しよう

 従来識字学校に期待されてきた内容の中には、他の単級・講座として独自に開設されてしかるべきものが少なからず含まれている。たとえば、話し方やコミュニケーションに関わる学級・講座である。解放運動の女性部の役員をしている人などがとくに必要としているのは、このような学級・講座ではないか。あるいは、識字に参加するなかで芸術活動にふれる機会を得た学級生の中には、芸術活動や表現活動そのものをもっと追求したいと思っている人が少なくない。その他、はっきりと職業教育的内容を求めて識字に参加している人たちもおり、彼ら彼女らから、ときとして現在の識字のありかたに対する不満が聞かれる。この人たちの学習内容も、独自の学級・講座として発展させられてしかるべきである。

 もしも解放会館や隣保館にこうした人たちのニーズに応える学級・講座が開設されていたら、彼らはそんな学級・講座に参加していたかもしれない。その意味では、これまで学級・講座といえばお茶やお華など伝統的な習いごとが主な内容となってきた点にこそ問題があるといえるのかもしれない。学級講座と言えば伝統的な習いごとが思い浮かべられる一方で識字に大きな期待が寄せられたために、生活に根差した学習要求がなんでも識字に盛り込まれていく傾向が生まれたのではないだろうか。

  さらに識字にいろいろな学習内容を盛り込むことがある程度成功したため、学級・講座の問題点が見えにくくなっていたことも指摘せざるをえない。識字を通して地域住民が必要としているものをつかみ、それを多様な学級・講座の開設に結びつけることが奨励されるべきである。さまざまな学習機会があって、文字の読み書きを中心とする識字はその中の一つという状態が、将来的にめざされるべき姿であろう。

 けれども、ではそうした学級を開きさえすればよいかといえば、けっしてそうではない。学びたい学習内容を提供する講座があったとしても、そこでの価値観が「うまくできるものの方がえらい」という能力主義的なものだったとすれば、識字に来ているような人びとは、そこに行ったとしても満足を得られないことが多いに違いない。重要なのは、こうした学級・講座が識字と同じ視点を大切にして開設されているかどうかということなのである。

  識字学級で大切にされてきた視点とは、最も厳しい状況にある人が生き生きしていられる学習の場所となっているかということである。識字学級のそうした特徴を関連学級・講座に持ち込むためには、識字を体験してその雰囲気や価値観を知っている講師や学級生を中心に新しい関連講座を始めることが必要である。人的にも寡囲気としても「株わけ」といえるような発想に立って、進められるべきである。

 こうした実験的識字関連講座の中には、さきの項目であげたボランティアを募ることを重要な目的とする講座も含まれるべきである。国際識字年以来、識字をめぐる啓発機会は各地で設定されるようになった。ところがそうした講座はたんに識字に関する知識や識字学習者の思いを伝えるにとどまり、残念ながら識字への参加につながるものではまったくなかった。もしもボランティアなどを通して教師以外の市民と識字を結び付けるとするなら、啓発のための講座と講師を募る活動を結び付け、識字に関する啓発講座の中に講師募集を組み込んでいくことも必要となろう。

5.戦略的に学習要求を掘り起こそう

 すでに述べたように、学習参加者が固定化しているという指摘も、少なからず聞かれる。この点に関わって、学習参加者の戦略的な掘り起こしが必要だという意見もある。学習者の戦略的な捕り起こしとは、マーケティング戦略に学んだものである。潜在的なニーズの調査研究から、なぜ非識字状態にありながら学習に参加しないのかということを明らかにし、そこから現在の識字学校に欠けているものを捜し出して、新たな学級像を生み出そうとするのである。

  読み書きできないことを知られたくないという理由が大きいのか。時間のないことが決定的なのか。健康上の問題が大きいのか。それとも教室の人間関係が問題なのか。教師の教えかたに問題があるのか。あるいは識字活動の実際を知らないことが障害となっているのか。原因は一つに帰することができず、複雑であろう。拡大戦略のプロセスには、調査だけではなく、住民への啓発や、学習者の組織化なども含んでいる。

 各地区の識字学校が中心となって、こうした学習者の掘り起こしができよう。以前は識字に来ていたが来なくなったという人、読み書きに困っていることが明らかなのに識字には来ていないという人などを対象にインタビュー調査を行うのである。場合によっては、いずれかの大学など研究機関と連携してこうした調査を実行することも検討すべきである。

 なお、調査に当たっては、「すべての人が読み書き学習に来るべきだ」という姿勢を持ちながらも、直接インタビューするさいには、その姿勢が前面に出ないようにしなければならない。つまり、「なぜ来ないのですか」と尋ねることによって来ない原因を聞きだそうとするのではなく、生活全般をつかみとることにより、なぜその人が識字に来ないのかということを事実から明らかにする構えが求められるということである。<識字実態調査のあり方については、大阪識字年推進連絡会編集・発行『大阪識字調査実施についての提言−識字問題研究会報告書−』(1993年)を参照されたい)

6.新しい発想で、学習材(教材)や手引書づくりをすすめよう

 以上を受けて、識字のための学習材や手引書づくりが進められるべきである。従来「教材」という呼び方が一般的であったが、識字が学習者中心に行われるものであることを考えれば、「学習材」という呼び方に切り替えていくべきである。識字の学習材は、一対一の学習を前提にして創られるべきではない。また、教材(学習材)と言えば一枚のプリントが思い浮かべられるような教材観・学習材観は捨てられる必要がある。学習材とは、なんらかのテーマにそくした学習を進めるための手掛かりとなる活動内容や活動方法を整理したものである。

  たとえば、全体学習の場でみんなが楽しく参加して文字学習を深められるゲームがあるならば、そのゲームの目的ややり方などを整理したものやゲームに使う道具すべてが学習材である。したがって、学習材の単位は、一つの小さなテーマに基づいて創られた学習内容と学習活動の一塊となる。プリントや映画などのかたちをとる学習材の物的側面は、教具や学習異と呼ばれるべきであろう。

 とりあえずアメリカやイギリス、南アフリカなどで開発されている講師用手引きや学習材集が参考になるものと思われる。それらを参考に部落の識字活動にふさわしいものが開発されるべきである。