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3月例会は、山下隆章さん(香川県香南町立香南中学校)から「近世讃岐における被差別民史の研究−高松藩を中心として」と題して報告を受けた。山下さんは2年間、鳴門教育大学大学院に国内留学して、同名の修士論文をまとめられた。報告の要旨は、以下の通り。
1. 讃岐における中世の被差別民に関しては、先行研究(橋詰茂「讃岐の中世賤民について」『香川の歴史』8、1987年)で「かわや」「さるかく」「しらひょうし」「とのはら」「茶せん」などが知られている。
2. 近世の被差別民史研究に関する先行研究としては、三好昭一郎「近世讃岐部落史の研究」「近世身分の編成と部落支配」、浜近仁史「丸亀藩における差別支配政策」「身分制度の確立と差別支配」などがある。
3. 讃岐3藩(高松、丸亀、多度津)は同じ身分形態だとされてきたが(三好)、実際には違いがある。例えば丸亀藩では「座頭」「穢多」「猿牽」、「説教師」「おんぼう」「かワた」「番人」が、高松藩では「穢多」「茶筅扱」「猿牽」「乞喰」「癩人」などが史料で確認でき、身分としての「非人」「おんぼう」の存在は確認できない。このうち「乞喰」は芸能に従事し下級警察業務の役負担をしており、野非人とは言えない。
4. 高松藩における「かわた」の呼称例(「かわた坊」)は、1点だけある(正保年間=1644〜47年)。「穢多」呼称の初見は1676(延宝4)年で、その後、丸亀藩では「かわた」と「穢多」が併用され、高松藩では「穢多」のみが使用される。
5. 「穢多」は斃牛馬処理を行なっている。利益にならない斃牛馬は処理していないから、それじたいは役ではなく、生業と考える。高松藩で斃牛馬処理・皮革流通の統制が始まるのは1800年代(享和年間)以降で、幕末まで3期にわかれる。
6. 「穢多」は下級警察業務の役負担をしているが、藩による支配ではなく、郡方支配の「穢多目明」と村方支配の「穢多番(人)」に分けられる。その報酬は給米・臨時の給米・施物の3つの形態があった。幕末から明治初年にかけて、群からの給米が削減・廃止されるが、同時に大庄屋・郡組頭などの役料も大幅に削減された。増大する郡村入目削減の一環であって、「穢多」だけが差別的に削減されたわけではない。
7. 「穢多」は農業にも従事し、出作もしている。副業として真綿・砂糖黍生産もしている。なお1820(文政3)年には砂糖黍から排除されているが、これは百姓からの要求だったと考えられる。
8. 高松藩は1750(寛延3)年に4種類(「道」「乞」「三味」「穢」)の勧進許可の木札を交付し、同年に穢多・乞喰・癩人に斬髮を強制するなど、差別政策を行なっている。背景に、百姓統制の強化があった。また百姓の側(大庄屋)からも細かな倹約令を願い出るなど、差別意識がうかがえる。
9. 「穢多」が浄瑠璃興行を行なっていた史料が1点見られる。諸芸活動は「乞喰」が中心で、活発に行なっていた。