5月例会は、宇那木隆司さん(高等学校教諭)から「中世後期における東寺散所について」と題して報告を受けた。宇那木さんは、世界人権問題研究センターの『研究紀要』3号に、同名の論文を書かれている。当日は史料に基づいて詳しい報告がなされたが、要旨は以下の通り。
1. 1950年代、林屋辰三郎さんが散所を部落史研究の基本課題として提起し、隷属民としての散所論を提唱したが、1960年代に入ると近世政治起源説が台頭して中世史研究そのものが停滞した。
1970年代に入ると、丹生谷哲一さんから賎視・差別とかかわらない散所の存在が指摘され、さらに黒田俊雄さんから中世被差別民の中核としての非人論が提唱されるに至る。また大山喬平さんからケガレのキヨメ論が提起され、聖なる天皇のケガレをキヨメる職掌としての被差別民が、ケガレと見なされる河原者とケガレとみなされない散所に分化するとする理解が示された。近年の綱野善彦さんの散所理解は、基本的には林屋さんの枠組みを踏襲している。
2. 東寺散所の理解については、脇田晴子さんと丹生谷さんとも、国家公権とのかかわりに注目している点で共通しているが、脇田さんが鎌倉後期の社会的分業の進展を背景とする被差別民の分化に散所非人を位置付けるのに対して、丹生谷さんは中世成立期のケガレ観の増大を背景とする被差別民の形成に散所非人を位置付けるという相違点がある。
3. 東寺散所の研究に関する当面の課題としては、(1)散所長者について、(2)文保元年八月五日付「後宇多上皇院宣」の評価、(3)散所制の提言について、などがある。なお、散所の史料上の初見は747年で、語義としては本所(権門)に対する散所である。また散所を冠する名称はいろいろあって(例えば、散所の非人)、さまざまなアプローチが可能である。
4. 東寺散所の特色は、国家公権に認定され国家的課役の免除の対象となっている散所(仮称として、当職散所)と、国家公権に関わらず御恩なく召仕っている散所(仮称、非職散所)が存在することである。そして前者(当職散所)に対する国家的認定も時代によって変化している。即ち、
後宇多院政期:1318年 員数限定で国家的課役を免除し、東寺掃除料とする
後醍醐親政期:1327年 東寺長日掃除役に従事するものとして国家的課役を限定的に免除
光巌院政期:1344年 東寺長日掃除役に従事するものとして国家的課役を免除
足利義満・永徳期:1381年 散所の所在を限定し、東寺長日掃除役に従事するものとして国家的課役を免除
足利義満・応永期:1403年 散所の所在を限定し、東寺長日掃除役に従事するものとして国家的課役を限定的に免除
5. 何をもって散所をとらえるかは、なお議論がある。掃除役をしているからと言って、ケガレのキヨメの側面だけで議論すべきではないし、散所が起請文を書いていることは神仏に仕える者という理解では説明できない。少なくとも東寺散所に関して言えば隷属民と見た方がいい。林屋説は再評価されていいし、多様な散所論があっていいのではないか。
(事務局)