----------------------------------------------------------------------------
1950年代以降、京都市の東七条の被差別部落で実施されたスラム対策に関しては、これまでに以下のような論文で言及されてきた。
- 三塚武雄「今日における労働問題の底辺」(『部落問題研究』27号、1970.7)
- 灘元昌久「部落差別を根拠とする権利の合理性について」(『こぺる』126号、1988.6)
- 金 靜美『水平運動史研究―民族差別批判』(現代企画室、1997.4)
- 大林澄人「“清掃”という名の強制撤去」(『ねっとわーく京都』79号、1995.9)
いずれも、あたかも行政が一方的にスラム対策を実施して住民を立ち退かせ、そこに住んでいた在日朝鮮人を強制的に移転させ、東九条に新たに建てられた市営住宅への入居を阻まれたかのように描くなど、事実誤認が多い。しかし、戦後の行政資料などを読むと、以下のような事実が明らかになる。
1950年に京都市が実施した同和地区の実態調査によれば、東七条の人口は6312人で、このうち朝鮮人は109人に過ぎない。1951年、建設省が行った不良住宅地区調査では、東七条の「鉄道沿線の所は戦時の疎開で空地になっている」と記されており、のちにスラム対策の対象となる在日朝鮮人の不良住宅が密集している状況とは言えない。『オール・ロマンス』の小説「特殊部落」が部落に住む朝鮮人を描いているというのは、正確ではない。
1952年、崇仁隣保館から京都市に出した文書には、東七条の整備事業を予定していた疎開跡にバラック住宅が建っていることを指摘して対策の必要性を訴えており、このころから不良住宅が建ち始めていることがわかる。1953年から京都市は2ヵ年計画で疎開跡整備事業を実施した。1956年、東七条内に同和対策として市営住宅を建設し、本格的な地区整備事業が始まる。
他方、1957年、京都市が国鉄沿線南部バラック集落の実態調査を行い、スラム対策を始める。1958年には東海道新幹線の計画が明らかになり、これに関連してバラック集落の改善を計画した。1959年、台風6号による被害があり、伏見区深草に仮設住宅を建設して、住民を収容する。
1961年、京都市は八条から九条にかけての河川敷バラック住宅の住民の入居先としてやはり伏見区深草に公営住宅を建設して住民を入居する。並行して、京都市が国鉄と、崇仁地区内を通過する新幹線用地の取得と住宅地区改良事業に関する契約を締結し、ほぼ国鉄が必要経費を負担する形で事業が実施される。1962年、新幹線拡張に伴い、鉄道敷不法占拠者対策として東九条に住宅を建設する。
以上、東七条地区の住宅改善は必ずしも行政が住民の意向を無視して一方的に行なったものではなく、事実を確定すことがまず必要ではないか。