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今年は「水平の行者」と尊敬された栗須七郎(1882−1950)没後50年だが、初期水平社の指導者で大阪の部落解放運動の生みの親でもある栗須の業績や思想は今日、あまり知られていない。
鄭承博氏は日本農民文学賞を受賞、全6巻の著作集(新幹社)も出版されている在日韓国人一世作家。9歳で渡日、建設現場などで働き学校にも通えなかったが、13歳のとき栗須に救われ、大阪・西浜の栗須方「水平道舎」に書生として住み込み、栗須の援助で初めて学校で学んだ。報告は「水平道舎」の様子や栗須の人柄などを知る上でも、「軍都」大阪と在日朝鮮人の関係史を知る上でも貴重な証言だった。
部会は徳島県同和対策推進会のビデオ『不屈の行者 栗須七郎』上映後、鄭氏が報告。日本の中国侵略が強まる中で、前線基地・朝鮮で植民地支配が一層過酷になり、多数の同胞が渡日せざるを得なかった背景を明らかにした。
そして(1)「水平道舎」は現在の浪速青少年会館の近くにあり、元社宅の棟割長屋の狭い2階建てで、多数の在日同胞青少年が書生として住み込み、栗須の援助で学校に通っていた、(2)「人学ばざれば草木に等し」をモットーとした栗須は、書生に厳しく学ばせるとともに、慈愛に満ちて指導した、(3)今宮の屠場で処理した牛の臓物を使った「肉天(にくてん)」を朝鮮人が販売すると、警察は経済統制令違反だと検挙したが、栗須は抗議して釈放させるなど朝鮮人に対する差別・抑圧と体を張って闘った、(4)大政翼賛会事務総長の有馬頼寧が全水解体を画策したが、栗須は猛反対した、などが話された。
これを受け鄭氏から、西浜の思い出、栗須の堺利彦との交友や天皇制に対する態度、部落出身者と朝鮮人の対立や連帯、大阪空襲で和歌山に疎開して以降の栗須の姿…なども聞いた。戦争と差別の戦時下、栗須は「部落民も朝鮮人も差別の中だ。日本は第2の差別民を作ろうとしている。おまえもそのつもりで世渡りをせい」と励ましたという。鄭氏のライフワークである栗須の伝記小説完成に期待するとともに、反差別国際運動にとっても示唆に富む栗須の業績や思想発掘の輪を広げたい。