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大阪の部落史委員会第9回古代部会は研究所歴史部会と共催され、山路興造氏を報告者に迎え、「芸能民の諸相―芸能民差別の歴史と実態―」というテーマで報告を受けた。報告の要旨は、(1)「回国の芸能者像」、(2)「古代の歌舞」の2つに大別される。以下、山路氏の見解をまとめる。
まず、(1)「回国の芸能者像」では、越後国(現在の新潟県)西蒲原郡月潟村に伝承された越後獅子(角兵衛獅子)を分析対象として取り上げ、越後獅子(角兵衛獅子)を通じて芸能民の在り方について考察する。
山路氏によれば、越後獅子(角兵衛獅子)が一体いつ頃成立したのかは不詳であるが、江戸時代の宝暦年間(1751〜64)頃には既に存在していた徴証があることから、その成立はおそらく近世に入ってからのものであり中世までは遡らないだろうと考えている。また、越後獅子(角兵衛獅子)の本拠地であった月潟村は、古来より河川の氾濫の多い場所であり、村の救済事業の方途として越後獅子(角兵衛獅子)が創始されたのではないかとする。越後獅子(角兵衛獅子)は基本的に獅子舞(4人)・笛吹(1人)・太鼓(1人)という構成をとり、1年の過半を旅先にて過ごしており、彼らは「旦那帳(何時何処へ行けばよいか書かれた帳面)」の記載に基づき、全国に存在する「旦那場(得意先)」を巡回することになっていた。
つまり、越後獅子(角兵衛獅子)が訪問する場所や巡回ルートはあらかじめ決まっており、軽々に比較することはできないが、日本中世の芸能者の存在形態であるいわゆる「漂泊民」とは異なる存在である。そして、最大の関心事である越後獅子(角兵衛獅子)が差別視された存在であったのかどうかについては、残念ながら判然としない。ただし、月潟村自体は皮多村ではなく、差別的待遇を受けた村ではないようである。
次に(2)「古代の歌舞」では、芸能者と差別との関わりを中心に日本古代に立ち返ることで、「芸能」というものが本質的に有していた特質や古代社会においてその「芸能」の担い手は差別される存在であったのかについて論じる。
そもそも古代「芸能」には、呪術的要素―遊びや鎮魂の呪法―といったようなものが内在していたが、山路氏は、基本的には日本古代〜中世前期まで芸能者が差別視されていたとは考えていない。
つまり、中世前期(平安後期〜鎌倉初期)頃までは、芸能者=専門的職能者であるとみなしており、そうした専門芸能をもった芸能者は差別の対象になり得なかったとする。
こうした専門的職業芸能者は、まず律令国家が主導的役割を果たしながら、保護・養成されていた可能性があり、それが地方(諸国国分寺・国分尼寺、一宮、国衙など)へと伝播して行くという現象が起こったと考えている。(=芸能の地方伝播)。
しかし、鎌倉後期から南北朝期にかけての社会変動のなかで、それまでの専門的職業芸能者集団体制が動揺しはじめ、やがて解体・再編されてくる。そのことは専門的職業芸能者が没落してゆき、本来の芸能者ではなかった人々が芸能を習得し、それを深化・発展させて台頭してくることを意味している。ここに山路氏は芸能の担い手の変化を読みとる。
そして、こうした芸能の担い手の変化を山路氏は、「道の芸能者」から「手の芸能者」への変化と位置づける。「手の芸能者」とは、「キヨメ」を職能とする被差別民による芸能行為を指しており、ここに芸能者と差別との問題が潜んでいるとする。
報告後、時代を問わず多種多様な質問が寄せられ、また活発な討議も行われた。充実した部会であった。