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歴史部会・学習会報告
2002年6月8日
大阪における明治期の芸能
〜 解放令と大道芸・うかれ節

中島 智枝子(帝塚山大学非常勤講師、大阪の部落史委員会委員)

 近世の非人身分が担っていた祭文が、近代に入ってどのような変容を辿り、大衆に愛された浪曲になったかに焦点をしぼり報告がされた。

 うかれ節は、浮連節、浮かれ節、浮れ節等さまざまな表記があり、関西では、うかれ節、関東では浪花節とよんでいた。

 うかれ節は正岡容「日本浪曲史」の中で紹介されているように、文化人とよばれる人やインテリには不評であった。

 芝清之氏によると、うかれ節は、「山伏たちによって<祭文>となって広められ、願人坊主により<チョンガレ><チョボクレ>となって発展した。近世における浪花節の母胎を追及すると<説教節><デロレン祭文><阿呆陀羅経>の3つに集約される。」さらに芝氏の説明によると浪花節の祖である浪花伊助が、文化末年から文政初年にかけての頃に、阿波浄瑠璃、祭文、春駒節、ほめらを取り入れうかれ節の名乗りを大坂であげたという。大道芸であった祭文やチョボクレ(=チョンガレ)がうかれ節の基になっているということだ。ちなみに浪花伊助は阿波藩士を父に、大坂新町の芸者を母として生まれた。

 このうかれ節は幕末の頃には京都地方では神社、仏閣の境内に仮設の小屋を造って幟興行が行なわれていたようで、明治に入って東京では浪花節と呼ばれたが、関西では明治期を通してうかれ節とよばれていたという。

 一方、俳優・芸能者は、明治維新後ですら行政権力者からは「川原もの」「制外者」(にんがいのもの)との扱いをうけ、その風儀は取り締まりの対象となった。

 1871年の解放令後、大阪では非人等の辻芸や門芝居は「町村に於て厳重停止可致事」とされ、彼等のうけた打撃は大きかったと思われる。

 また行政権力者は、辻芸等雑芸に従事していた人びとに対し、「賎敷遊業」と露骨な賎視観をもっていた。

 うかれ節が大道芸から離れて寄席の舞台にかかったのは、1877(明治10)年前後とされているが、この時期の大阪の資料は乏しい。そこでこの時期の京都におけるうかれ節について書かれている『明治新選西京繁昌記』をさぐり、大阪でのうかれ節の興行場所や、興行の実態を類推したいと、三枚の挿画が紹介された。

 娘義太夫、落語、うかれ節の三種の演し物を演じているもので、前二者は興行場所は寄席の高座だが、うかれ節は空き地に演台だけを置いたものか、葭簀(よしず)を立てかけ囲いがあったものか、それとも本格的な小屋であったのか、はっきりしないが、前二者の場所とはあきらかに見劣りがする。

 演者は談者と三味線弾きの二人が描かれている。見台を前に胸をはだけて着物を着た談者が右手に扇子、左手に近世の祭文語りと同じように錫丈を持って座っている。談者の左側に日本髪でやや胸を開けただらしない感じで着物を着た女が三味線をもって座っている。談者は羽織・袴を着用していない。そのうえ前二者の場合、演者の名前が紹介されているが、うかれ節の場合、演者の名前は紹介されていない。演者に対し、前二者より軽視しているのは明らかである。

 近世の非人芸の流れをくむ祭文が、うかれ節となり、1900年代に浪曲となり、大衆芸能を代表するものとなった。

(文責・事務局)