阿南さんは、江戸時代の牛皮流通について、幕府領長崎、福岡藩、小倉藩、豊後府内藩を中心として大坂渡辺村商人の足跡を明らかにしようとする目的で、以下のように説明した。
長崎のオランダ貿易では、輸入される皮革として鹿皮・鮫皮・牛皮・染皮があり、鹿皮は明暦2年(1656)の19万5574枚が最高、牛皮はシャム牛皮が多い年で5000枚程度輸入された。
同じく中国貿易では正徳元年(1711)に鹿皮・牛皮・す皮合わせて8万5821枚輸入されたが、皮革輸入は、オランダ貿易で享保年間に止まり、中国貿易も同様の傾向を持つ。両国との貿易における皮田のかかわりには、<1>延宝期には長崎と大坂の皮田の分限高(輸入品購入高)が決定、<2>五か所商人と惣穢多の入札が寛文期以降継続、<3>入札分とは別に皮田が輸入牛皮を元値で買い取る仕方が100年以上継続、などが指摘できる。
つぎに、九州諸地域と渡辺村商人との関係では、<1>享保期以降の輸入皮革の減少に伴って、渡辺村皮商人は府内・豊前・筑前など九州一円に姿を現す、<2>府内藩では池田屋・太鼓屋、小倉藩では大和屋・太鼓屋、福岡藩では出雲屋などが、藩内の皮座権益をめぐって対立する皮田集団にそれぞれ入り込み、大坂皮問屋の地位を占めるとともに、先納銀による前貸し支配で牛皮を納入させる(勝男報告を参照)、等々を見出せる。
また、対馬藩では朝鮮貿易で牛革を輸入していたが、雪駄類の生産のために19世紀前期、皮田を島外から導入している。