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歴史部会・学習会報告
2002年8月1日
第8回部落史研究交流会
[全体会]

動物と関わった人々

松井 章(奈良文化財研究所埋蔵文化財センター/
京都大学大学院人間・環境学研究科)

 年間1万件以上の発掘が日本中で行われているが、骨が出てくる遺跡はそのうちの1%あるかないかである。99%の遺跡では動物の骨は消え去って無くなっている。

 ところが、技術の進歩によって地下水に守られた遺跡から残りのいい動物の骨が出て来ている。そのはしりとして大阪の瓜生堂遺跡から縄文、弥生、奈良、平安の動物遺跡がかなり発掘された。

 発掘された骨の表面には刀傷あるいは斧で叩き割ったようなものが明瞭に観察できた。また、大部分の動物は解体されて肉を取られた痕跡が弥生時代から戦国時代ぐらいまでの骨にゆうゆうと見られたが、これは例外的な肉食の証拠だろうと思っていた。

 ところが、広島県福山市の草戸千軒町遺跡から発掘した犬の頭の骨を手に取って見ると後頭部が鉈のようなもので陥没している。また、前足、後ろ足の骨をよく見ると前足が斜めにスパッと鋭利な刃物で切断されていたり、埋葬された犬はゼロであること。背骨の骨が連なって出土した例がなく、すべてゴミの中にバラバラになって埋められている。そのような事実を冷静に考えるとほとんどの犬は食べられていたのではないかという結論に達した。

 また、城山遺跡(大阪市と八尾市の境目)から奈良時代の馬の頭とその他の骨が出土し、額の部分に鉈のようなもので切れ目を入れ、そこから丁寧に側頭骨を刃物で切り拡げ、後頭部をもぎ取り脳を摘出する痕跡があった。その時点では何のために脳を丁寧に採ったのか分からなかったが、その後、国立民族博物館で開催された「狩りと漁労」というシンポジウムでアジアの皮なめしは、水に皮を浸して柔らかくし、ヘラで皮下脂肪や余分なタンパク質を削ぎ落とす。あるいは、便所の中に1〜2週間漬けた後、川できれいに洗う。そのような皮なめし技法がもともとアジアに古くから伝わっていた。

 それに対して、植物系の民族はトナカイの皮をなめすのにトナカイの脳あるいはサケの卵を皮に塗り込んでなめしを行うという報告が行われた。その報告を聞いた別の方より延喜式に鹿の脳を使うという記事があるという発言があり、その後、動物関係の律令を見たところ養老令の中に政府の牛や馬を死なした場合、皮と脳そして角と胃(胆のう)それから牛の胆石を取ることを定めている。

 また、注釈書の『令義解』や『令集解』を見ると脳とは馬の頭の中の髄なりと注釈が記述されている。なお、20世紀においては牛の脳でなめしを行っているが、奈良、平安時代において牛の脳はどうなっているかは分からない。

 ただ、城山遺跡の馬の四肢骨(前足、後ろ足)の腱の部分に直角に走る鋭い刃物傷がたくさん見られる。この傷から解体だけを目的にしたのではなく腱を切断して肉を取ろうとしたことに間違いないと思う。

 次に、斃牛馬処理についてであるが、平城京の南の端あたり(現大和郡山市)で運河を挟んで大規模な斃牛馬処理工房が営まれていたことが発掘で分かった。

 律令制のこの時代、都市(城)の中にすべての生産をほりこもうという意識が非常に強いと考えると、京内で牛や馬の解体処理をして皮をなめす、また、その残りをみんなに食べ捨てている。そう考えると京内から流れ出す排水の汚濁はもの凄いものだったと考える。同時に、数万人の水まわりを佐保川、秋篠川だけで解決するには到底足りなかったと思う。

 そのような意味で長岡あるいは平安に変わるに連れて、水まわりが多くなっていることは大きなキーワードだと思う。

 平安時代の中頃になると平安京の南側にあった斃牛馬処理工房が埋め立てられて土地化するという現象が起こり、そこで働いていた皮なめしの職人達はいずれとしてその行方がわからなくなった。ただ、1016年(長和5年)の『左経記』の記載の中に、貴族の邸内で牛が死んだ時、河原人等が牛の始末を行うという話がある。

 地方においては大阪の城山遺跡にみられるように、河川近くで馬を解体してその残りを捨てていた。あるいは、千葉県の房総半島の南借当遺跡では自然河川の両側で古代から中世にかけて牛、馬の処理をずっと続けている。また、骨細工が内々で行われていた、ということが分かっている。

関西では斃牛馬処理は徹底的に行われているが、関東地方とりわけ千葉県、茨城県では中世あるいは近世になってもけっこう馬の埋葬がある。

 千葉のマミヤク遺跡から出土した馬の埋葬は、おおよそ馬の前足後ろ足胴体と位置関係を保っており、馬の頭だけが抜けている。また、広島の草戸千軒町遺跡からは牛の前足後ろ足を縛って、頭を取っている室町時代の牛の埋葬が一例だけ出土している。とりわけ、これら頭だけが遺跡から抜けている理由として、平安時代後半から鎌倉時代にかけて井戸を埋める際にあらかじめ白骨化した牛の頭を逆さまに入れて埋めたということが岡山県の鹿田遺跡等から考えられる。

 また、このような馬や牛の埋葬事例から江戸時代に弾左衛門が関八州を支配したと言われながら、農村で死んだ牛、馬はその支配の目をかいくぐって埋葬されている事例が結構あると思う。

 一方、関西では馬の埋葬をみかけることはない。中世になると徹底的にバラバラにされた後、大きな穴を掘って牛の骨や馬の骨を詰め込んでいる。また、これらを斃牛馬骨廃棄遺構と呼んでいる。

 しかし江戸時代になると、これまで捨てるものでしかなかった牛馬骨が骨細工の材料や肥料としての価値を持つようになり商品流通に乗るようになった。その結果、中世の斃牛馬骨廃棄遺構は姿を消したのである。この背景にはかわた斃牛馬処理権の確立、特定の集団が一定地域の斃牛馬を扱うことによって、牛馬骨の安定的供給を可能にする体制を確立したことがあげられる。