調査研究

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2003.12.05
部会・研究会活動 <歴史部会>
 
歴史部会・学習会報告
2003年06月07日
大阪市域の拡張と依羅(よさみ)村(浅香)

(報告) 北崎 豊二(大阪経済大学名誉教授)

大阪の水平社の創立と融和事業のはじまり

(報告) 秋定 嘉和(池坊短期大学名誉教授)

大阪の部落史委員会は『大阪の部落史』第5巻(史料編)近代2を2003年3月に発刊した。それを機会に本歴史部会で北崎豊二「大阪市域の拡張と依羅(よさみ)村(浅香)」(第一報告)と秋定嘉和「大阪の水平社の創立と融和事業のはじまり」(第二報告)の二つの報告が行われた。要旨は次のとおりである。


(第一報告)

1889(明治22)年の町村合併で9か村が合併して成立した依羅村のうち、杉本新田は宝永年間の大和川の付替直後に開発がはじまり、1721(享保6)年に正式に集落が形成された。この杉本新田が被差別部落の浅香地区である。1917(大正6)年頃の戸数は230戸前後、人口は1000余人であった。

『部落台帳』(1918年)によると、杉本新田の職業構成は農業が48戸(全戸数の20%、以下同じ)、屑物・古物行商157戸(68%)となっていて屑物・古物行商が異常に多いが、これはにわかに信じがたい。

次に、依羅村の田地の43%、畑地の43%、空地の12%は他村民の所有となっている。

依羅村の村会議員の定員12名のうち杉本新田出身の議員は2名であり、1917(大正6)年の同村の村会議員有権者は167人となっているが、杉本新田の「公民権ヲ有スル者」はわずかに16人で、杉本新田の有権者の率は極端に低い。

生活状態は戸数231戸のうち「中等以上生活者」は16戸、「下等生活者」45戸であり、飲料水は231戸が五箇の井戸に依存しているがその水質は悪く、大部分は大和川の水を飲用水としているという。

ところで、1924(大正13)年の東成、西成両郡44か町村の大阪市への編入は、そもそもは1919(大正8)年の「都市計画法」にもとづくものであった。1921(大正10)年7月には大阪市、東成郡、西成郡および中河内郡矢田・巽・瓜破の3村を大阪の都市計画区域とする答申が出された。それを受けて1922(大正11)年には大阪市域変更調査会は西成郡(淀川以北を除外)、東成郡(榎本村の一部除外)の編入案を採択した。

1924(大正13)年4月には、西成郡の全町村長が大阪市への編入を要望し、東成郡でも編入反対の依羅村を除く全町村が編入を求めた。

ところで依羅村が編入に反対した理由として、編入されると農村の醇風美俗が破壊される、部落有財産が市の財産となって村は大きな損失を蒙る、改善事業を行っている模範村としての誇りから、などがいわれた。

反対運動の中心は依羅村でも杉本新田といわれたが、その他にも当時の村会議員がその職を失うので彼らが中心になって反対したともいわれた。反対運動は1924(大正13)年の4月ごろからその動きがはじまり、内務省への陳情、内務大臣への請願書提出などが行われた。これに対して、近隣町村の町村長らの依羅村村長、村議に対する説得工作もはげしかった。また大阪府は役人や郡長による説得の他、僧侶・医者まで動員して村民の反対を鎮めようとした。

しかし結局、依羅村は1925(大正14)年4月、東成郡の他の村々と共に大阪市に編入された。依羅村村民の編入反対運動は、主体が村長ら村の有力者であったことや、杉本新田の村民は、当時堺市との合併に反対して闘った舳松村の村民のように、主体的に反対運動を展開しなかったという限界を持っていたと考えられる。

その後、1928(昭和3)年から、大阪商科大学(現在の大阪市立大学)の杉本町への移転改築に際して、浅香町の小作人は用地買収問題に直面することになる。

(第二報告)

『大阪の部落史』第5巻に掲載した史料の中から、新しい史料、注目すべき史料をいくつかの分野についてとりあげる。

(1) 改善事業と改善運動

大阪府が本格的に改善事業に着手する以前の救済事業、方面事業に関する史料からこれらの事業と改善事業との関連があきらかになった。また、1910年代から各地でつくられた青年会や融和団体を史料は刻明に追っている。

(2) 部落産業と貧困

このテーマについては従来から多くの史料が紹介されているが、西浜土地建物株式会社、日本運道具株式会社のような部落産業の創業に関する史料や、第1次世界大戦後の部落民の窮乏生活を語る史料などが注目される。

(3) 朝鮮人労働者の流入

第1次世界大戦中・後に「内地」に渡来する朝鮮人労働者が急にふえ、部落の周辺に住みつきはじめた。その過程で朝鮮人労働者の組織が水平社と交流しはじめたことが史料であとづけられている。また、水平社同人の、部落民の朝鮮人蔑視を論じた史料も目につく。

(4) 水平運動の成立

女性解放運動と水平社創立との関連を知らしめる史料や、全国水平社のアナーキスト系の組織および思想に関する史料も掲載されていて水平運動を広くとらえている。

(5) 文化と思想

新田帯革の独特の労務管理法や1923(大正12)年に在阪の各紙の新聞記者が部落問題に取り組むために水平記者倶楽部を結成したこと、皮革商の沼田嘉一郎が業界団体から推されて衆議院議員に立候補して当選した史料など、従来あまり知られていなかった史料がみられる。

(里上 龍平)