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2003.12.05
部会・研究会活動 <歴史部会>
 
歴史部会・学習会報告
2003年10月18日
ウシ・ウマからみた古代の大阪

(報告) 積山 洋(大阪市文化財協会)

積山さんの報告の要旨は以下のとおり。

従来の考古学は出土した石器・土器などの遺物や遺跡・遺構などに注目し、それらの分析や復元を通じて先史時代・歴史時代の人たちの生活や社会、精神世界を明らかにしてきたが、出土する動物の骨にはあまり関心を払ってこなかった。

それが1980年代から、松井章氏(国立奈良文化財研究所)を先駆者として、出土するウシ・ウマの骨から動物の利用法、解体処理集団、肉食のありさま、牛馬による祭祀の解明など、新しい分野が開拓されてきた。これが動物考古学である。動物考古学は当時の環境をも明らかにしてくれるため、環境考古学の重要な分野に位置づけられる。

そこで、大阪に焦点をすえて、古代におけるウシ・ウマの骨が出土した遺跡から、古墳時代4例、飛鳥時代3例、奈良時代3例(うち1例は平城京)、平安時代2例(うち1例は平安京)をとりあげて、骨の出土状況を祭祀と関連させながら見ていきたい。

ところで、ウシ・ウマの骨が出土するまでの過程は次のように整理される。すなわち、生きたウシ・ウマは(1)自然死するか事故死して遺棄されるか埋葬されるか解体される、(2)と畜されて解体される、(3)犠牲に供されて祭祀に用いられる。祭祀としては、葬送(古墳時代)、雨乞い(古代から)、農耕(古代から)、井戸を埋める(平安後期から)などがある。なお、解体されたウシ・ウマからは肉、原皮、膠の材料、骨製品、角細工の他、近世においては肥料などがとられた。

四條畷市蔀屋遺跡の古墳時代の大集落から一頭まるまるの姿で出土したウマの骨は最も古い出土例である。ちなみにウマが出現するのは埴輪などから5世紀前半と考えられる。

ついで古墳時代の後期の長原南口古墳から出土するウマの骨は、供犠として古墳祭祀にウマが用いられた最も古い例である。被葬者が馬に関係のあった人物と推定される。

さらに、古墳時代後期から飛鳥時代にかけての長原遺跡では、撤去した柱跡からウシの骨が出土している。地鎮のためと思われるが、その出土状態は上半部にウシの左側の骨が、下半部には右側の骨が置かれ、上下の脛骨・大腿骨が靭帯でつながっている。埋葬に何らかの方式があったことを証しているといえよう。

飛鳥時代になると、大阪市中央区の住友銅吹所跡(前期難波宮の南西)、同森の宮遺跡(前期難波宮の東)では、出土したウシ・ウマの骨に加工の跡がみられるとともに、人形、舟形、斎串(いぐし)の木製祭祀道具が出土している。また中央区の大坂城跡(前期難波宮の北)からは、日本最古の絵馬が出土している。

奈良時代には、ウシ一頭まるまるが遺棄された状態で出土し、祭祀遺物が共に出てきている例がみられる(長原遺跡)。あるいはそこがウシ・ウマの解体場であったのかもしれない。また人面墨書土器も出土している。漢神(中国の水神)信仰が行われていたことがわかる。さらに、平城京右京八条一坊一一坪からは、ウシ・ウマの骨とともに祭祀道具が出土したほか、鋳物や鉱滓、漆を入れる土器なども出土している。漆器および金属器の工房があったものと思われる。

最後に、平安時代には水田畦畔祭祀(農耕儀礼)の例がみられる。大阪の池島・福万寺遺跡では、条里水田の坪境の溝の底に杭をうがち、ウシの頭蓋骨を仰向けにして埋めたものと下顎骨のみを埋めたものとがみられる。これは雨乞いのために行った供犠で、埋納する際、肉食を伴う饗宴が催された可能性があると思われる。

(里上 龍平)