本報告は、近世京都の陰陽師若杉氏と大黒氏の土御門家との関係、両氏の陰陽師としての活動・職分等について論じたものである。
中世の下級陰陽師は散所にあって唱聞師として卜占を行い、千秋万歳、三毬打(さぎちょう)を催していた。彼らは大黒党ともいわれ近世の陰陽師に系譜の上でつながっている。
それでは近世の京都における陰陽師の姿はどのようなものであっただろうか。
元来、京都の陰陽師は京都御所の近接地に集団をなして居を構えていたが、18世紀はじめの宝永の大火ののちに移転し、身分も町人となった。
その集団は近世はじめにおいては、仲間内で個々の家職的所有を承認する機能集団で、諸国触頭(京都陰陽触頭は若杉氏)、取締といった役職の支配下にあった。
土御門家は陰陽師の本所であり、陰陽師集団との関係は免許状の発給と運上の上納にあった。しかしこの時期、小頭の承認をえない上納が問題化したり、若杉上総が引退するなどのことがあって、土御門家との関係が動揺した。
それが1750年代以降変化する。陰陽師集団の再編が行われたのである。
天明四年(1784)、京都の在来の有力陰陽師が「古組」に任命され、本所・土御門家の役人として土御門家で勤務するようになる。それに伴って若杉美作は土御門家への貢租を免除されることになった。すなわち「京入」「北野入」など勧進場所からの収入に加えて、土御門家に納めていた「職札入」も収入に加わることになる。さらに、19世紀に入ると土御門家の全国陰陽師支配が確立し、「古組」は陰陽寮の寮官の官位を獲得し、若杉氏は土御門家の家司となった。
一方、大黒氏は中世においては御所周辺の唱聞師としての職能を持ち、近世においては特権的身分をえた。土御門家から陰陽師としての許状を受け、洛中の陰陽師集団においても主要な位置を占めた。そして地下官人として「三催」(両局=外記方、官方、蔵人方<大黒氏はこれに属する>)の配下に置かれた。陰陽師としての職分は堂上公家・町人・洛外村落に旦那場を持ち、それは近世前期から維新期までつづいた。
ところで、中世において唱聞師大黒衆(党)が拍子をとっていた宮内の祓行事である三毬打(民間では「左義長」「どんど焼」として今も行われている)は近世ではどのようであったろうか。元来、三毬打役には大黒が勤める上役とその下の下役があり、寛政一一年(1799)には紋付提灯が許可され、のちにはそれが下役人全員に配当された。この頃から下役人が補充され、それが町人によって代替されていく。すなわち町人の負担によって三毬打を催すことになる。
最後に京都周辺の在地の陰陽師(歴代組)について考察する。
天和時代(1681〜1684)には、土御門家に仕えて祭祀の「具官」をしていて、仲間組(摂津・河内では枝郷化していた)間での通婚が行われていたことがわかっている。時代が降って寛延時代(1748〜1750)には摂津で、梓神子との縁組、人別帳の肩書などをめぐって各地で争論がおこった。さらに嘉永六年(1853)には寺社奉行所が歴代組陰陽師の身分の帰属を調査したり、次の安政年間には歴代組の帯刀や絵符提灯使用をめぐって争論がおこり、地域との対立が生じたところもある。
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