調査研究

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2005.07.11
部会・研究会活動 <歴史部会>
 
歴史部会・学習会報告
2005年5月7日
排日移民法と水平社

廣畑研二


 5月の歴史部会は、廣畑研二氏が今春に発表された論文の内容に基づいて、原稿では書ききれなかった補足事項を中心に進められた。氏は、部落史・水平運動史の視点から、水平社にとって「排日移民法」の意味を考えることを目的とし、新たに発掘した警察調書『外事特別資料第一五輯』(内務省警保局、1925年4月)に記載される、阪本清一郎による部落民のロシア移民計画について、その妥当性に検討を加えようとした。結論としては、阪本の計画の詳細、あるいはその実施を裏付ける運動側の史料は発見できなかったが、その存在を否定することはできないとした。

 阪本は、ロシアにおいて部落産業(膠製造業)を確立することにより、水平社の活動資金を捻出しようとしたのであり、その原動力となったのが、アジア排斥を唱えるアメリカへの抵抗、南米移民志向である日本政府への対抗、南梅吉のスタンドプレーに対する抵抗するであったとする。

 次に、部会で報告された補足事項から、筆者が興味を抱いた項目を紹介したい。それは、「外務省記録」の内外移民関係資料にある、徳川幕府による棄民実例を示す記述である。これは、1905年4月7日付で内務省衛生局長窪田静太郎より出された文書で、「江戸ノ癩病者百人余耶蘇信徒ナルコト露見シ弾左衛門ニ命ジ之ヲ斬殺セシムルコト談海集ニ見ユ」という記述がある。

 窪田は帝大教授に調査させた報告に基づいているというのだが、『談海集』という書物が確認されておらず、これが内閣文庫所蔵の『談海』及び『続談海』であったとしても、「弾左衛門」に関する記述は見あたらない。そうすると、「弾左衛門」によるキリシタンのハンセン病患者の斬殺は、近代になってからの捏造であるということになり、これは「徳川幕府がかつてハンセン病患者をフィリピンに島流ししたという噂」(現地では脈脈と語り伝えられてきたのだろう)を否定する為だと思われる。1905年という、日露戦争前後におけるアメリカとの外交交渉(フィリピンは当時アメリカ領)にマイナスの影響を及ぼす危険性を取り除きたかったのではと推測される。

 また、窪田が関わった、ハンセン病「国辱論」と「絶対隔離論」の解釈についても、「キリシタン・ハンセン病患者弾圧」という歴史がある限り、アジアの野蛮国と見下され続ける事となり、日本政府の無策を恥じる「国辱論」ではなく、感染する患者を恥じる「国辱論」をふりまくことによって、政府の責任を患者に転嫁したのが「国辱論」の内実であるとし、「絶対隔離論」についても、血族結婚がハンセン病罹患体質を遺伝させるという認識に基づき、最も罹患の危険性が高い皇族への感染を阻止する「皇族感染絶対阻止論」であったのではと推測している。外交交渉の裏舞台で様々な思惑が飛び交うことは、今も昔も変わらないことなのだが、明治期における差別意識を垣間見ることが出来、非常に興味深い史料である。

以上、まだまだ紹介したい報告内容があったのだが、紙幅の関係で割愛させていただく。

(文責:藤原 豊)