調査研究

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2007.11.02
部会・研究会活動 <歴史部会>
 
歴史部会・宗教部会 合同学習会報告
2007年7月7日
京野菜作りを支えた人々-戦前期京都市上賀茂地区の朝鮮人

高野昭雄(京都女子中学校・高等学校社会科教諭)

 本報告は、原田伴彦部落史研究奨励金を受けて行なわれた研究の成果報告である。報告者はこれまで、戦前期の京都市をフィールドに、部落とその周辺に定着した朝鮮人の実態解明をすすめてきた。本報告では、被差別部落を学区にふくまない上賀茂学区における朝鮮人住民の人口比率が高いことに注目し、その実態を明らかにした。

 上賀茂学区は、1931年に京都市に編入された新市域である。1935年の調査によると、京都市の全101学区中、朝鮮人人口率は吉祥院、楽只、竹田に次ぐ4位、11.74%であり、人口も8番目、896人にのぼっていた。しかし戦後の1970年の国勢調査では2.7%、397人に低下して京都市平均の2.2%に近づいた結果、これまで注目されてはこなかった。

 現地は農村地帯であり、賀茂なすも知られるが、特産物はすぐき菜(酢茎菜)である。これは「すぐき」という漬物の原料としてひろく栽培されているが、とりわけすぐき菜には蔬菜類中反あたり最も多くの下肥(人糞尿肥料)が施肥されていた。ちなみに下肥の91.2%が蔬菜類に投下されていた。この屎尿運搬に朝鮮人労働者が従事していたことが、当時の新聞記事などから分かる。そのなかから、上加茂肥料汲取組合長を務めた金宋洙のように、保育園を経営し、学区会議員に当選し(1935年。ただし39年には落選)、市会議員選挙や府会議員選挙に立候補するリーダー層の成長も見られた。

 現地は、賀茂川が山あいから平野部に出てくる場所であり、砂利採取の適地でもあった。建設工事での砂利需要の高まりをうけて、賀茂川沿いに朝鮮人の密集地が形成され、砂利の盗掘をめぐって警察とのトラブルもしばしばあった。なお、1960年に、賀茂川での砂利採取は禁止された。高野川、桂川も同様に禁止された。

 このほか、賀茂川の改修工事や立命館大学の運動場拡張工事などに朝鮮人労働者が働いていたことが新聞記事からわかる。また、近隣の土地区画整理事業などにも従事していた。

 桂川沿いの吉祥院や梅津では、上賀茂と同様に、戦前期多くの朝鮮人が砂利採取業に従事した。しかし戦後は、京都市南部が染色工業地帯化し、低賃金労働者としての朝鮮人が引きつづき定住したのにたいして、上賀茂では工業は発展せず、農業のかたわらで住宅開発が進んだ。屎尿汲取も戦後は見られなくなり、高度成長期には朝鮮人人口が急減していったのである。

(文責:廣岡浄進)