〈第1報告〉
大藪報告は、1906年に京都市の田中部落に親友夜学校を開き、その後およそ10年間校舎の二階で家族とともに起居した教員にして改善運動家であった上田静一を、彼の北海道移住事業を中心に追跡したものである。上田については、重要な先行研究として、白石正明「上田静一小論・親友夜学校と北海道移住」解放教育史研究会編『被差別部落と教員』(明石書店、1986年)がある。また北海道移民については、藤野豊や黒川みどりなども触れているが、わからないところが多い。自分は現地調査によって北海道庁史料を入手したので、白石論文後の20年間の移民研究の進捗などを踏まえて再検討したいと、そのねらいを述べた。
帝国公道会など、部落改善運動の関係者によって1910年前後から部落民の北海道移住の構想が語られるようになる。内務省もこれを奨励し、1916年には帝国公道会の大江天也と協議のうえ、上田が田中で移民団を組織して、北海道に渡る。
上田の率いた移民団は当初11戸で形成されたが、そのうち田中部落からは6戸、残りは上田の義弟や兄などの親族が主であった。入植後にうけいれた岐阜県出身者17戸をはじめとする24戸は、そのほとんどが入植地の近隣に縁故をもつ希望者を、入植許可地の余地に充てたという事情によるもので、部落出身ではないらしい。上田は移住後も冬には京都に戻ってきて、京都にのこした家族と生活するという二重生活であった。
上田は部落民ではなく、現在の大阪府富田林市の山間部の裕福な農家の出身であった。この生い立ちが原風景となっていることが、入植地の地形と生家周辺の地形とがよく似ていることからもうかがわれる。さまざまな限界はあり、妻を京都にのこして北海道で別の女性と同居するなど評価に悩む部分も少なくないが、部落の生活を向上させようと率先した先駆的実践者であったといえるだろうと、まとめた。
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