住本健次氏は『脱常識の部落問題』(かもがわ出版、1998年)所収の「渋染一揆再考:渋染・藍染の色は人をはずかしめる色か」で、報告者を批判し、渋染も藍染もひとの嫌がる特別の染ではなかったと主張している。ここには重大な誤解があるので、反批判をおこなう。
住本氏は岡山藩の布令でなぜ別段倹約令として「無紋、渋染・藍染に限る」とされたのかに、きちんと答えていない。無紋とは、家紋のあるいわゆる紋付だけでなく、ひろく紋様やがらのない無地単色を指す。当時すでに紋様の染め織りが一般化しており、貧困層は古着を買いもとめて着ていた。ところが無紋となれば新調するしかなく、倹約どころか、かえって出費がかさむと、一揆側が反論している。
住本氏が渋染を茶色一般にすりかえたうえで、江戸期にもっとも庶民から好まれたと記しているのは、誤りである。渋染は赤系統の色として受けとられていた。中世では渋染が布の強化や防水や防腐のため麻布に用いられたが、これは被差別民の装いであった。近世には木綿の染め織りが爆発的に普及したが、渋染は木綿に適さず、染めると固くなるので染糸もできないため、当時すでにすたれていた。なお、茶系色の流行は、幕府の奢侈禁令による色の制限との関連が深い。
ここでいわれる藍染とは、浅葱(浅黄・浅藍)と呼ばれる、染めの一番浅い、安物の青灰色のことである。他藩での衣服統制令では「浅葱」と明記される例が確認できるうえ、渋染一揆以前の岡山藩の御触書でも「浅葱空色無地無紋」との文言が見られる。この浅葱色とは、じつは獄衣、つまり囚人服の色なのである。なお、明治政府の獄衣も、柿渋色と浅葱色を伝統的に踏襲していた。
住本氏はまた、問題を倹約令一般と取りちがえているため、断罪を覚悟で一揆にたちあがった民衆の思いを説明できていない。一揆参加者の著作であると考えられる『禁服訟嘆難訴記』は原題が『穢多渋着物一件』であり、ここからも彼らが渋染を強く拒絶したことがうかがわれるが、同史料所収の嘆願書には「倹約令が百姓同様なら承諾もするが、衣類を別段にされることはお断り申し上げる」「無地の渋染のところを免じて、百姓同様にしてください」という旨の記述がある。一揆の論理はさらに、役人としての実務の観点から、識別されやすい衣服では、盗賊や不審者に気づかれてしまって不合理だとの批判も展開している。領主にたいしての務めを果たしていることに百姓と「何の違いぞあるや」とする強い自負心が、その抵抗の源泉にあったことを感じ取られる。これは一般の百姓との差別分断政策であり、差別が子孫にまでおよぶことを阻止した彼らの思いに心を重ねたい。
報告者が主宰するアジア民衆歴史センターの機関紙『アジアの日本』第4号から第8号にかけてが配布され、報告はそれを基本にすすめられ、さらに多色刷の図版の配布や、持参の実物資料などの提示がされた。とりわけ実際の柿渋染の布や型紙などは、参加者の強い関心をよんでいた。
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