報告者は子どものころ、農協経済連職員であった父の職場としての食肉センターに出入りした。高校で部落問題を知ったが、高卒後にあったと場の労働条件改善運動など自分にとっては差別とたたかっている姿が印象に強く、被差別のイメージが重ならなかった。近年、内澤旬子『世界と畜紀行』をはじめ、と場やと畜が注目されているが、困惑もおぼえている。というのは、少ないなりに、くりかえし取りあげられてきたはずだからだ。学校の同和教育などで、部落史研究の解明や聞きとりが活用されてきたのか。自分自身がかかわった『四日市の部落史』もふくめて、自治体の部落史編纂はまとめてもその後の活用にハードルが高く、たとえば図書館での禁帯出や配布対象が研究者のみなどの制限がある。
骨・筋・血・臓器をあつかう化製業をめぐっては、肉や皮に比べても、社会的に正当な評価がされていない。しかし、と場にとって廃棄物処理という不可欠な役割を担うばかりでなく、有効利用をすすめてきたのであり、地域によっては化製業の業者が融資をして食肉業者を育成していた歴史もある。食品・医療品・化粧品などで利用され、BSEで注目されたが、BSE後商品イメージの問題で代替品開発がすすんでいる。
『四日市の部落史』第4巻民俗編に執筆した山喜商会の事例から、1950-80年代の化製業を紹介する。同社は四日市地方卸売市場食肉市場でと畜された家畜の不可食部分のほとんどをあつかった。明治初期から太鼓張替えや毛皮など皮の仲買を営み、戦後まもなくまでは食用の内臓もあつかったが、1950年代頃から内臓は専門業者が別に引き取るようになった。従業員は家族ふくめて10人程度の規模だったが、小集落改良事業に際して、移転時の設備投資の問題から1982年に廃業した。水害のため古文書はほとんどのこされていない。
皮は、下処理して保存し、注文に応じて鞣業者に納入した。牛は、剥いだ皮からアキレス腱は食用業者に卸し、マメ(副蹄)・耳・蹄付骨(中手骨・中足骨)は蒸製した。牛皮は一枚ごとにひろげて塩をして常温で積み上げた。豚皮は皮下脂肪をすきとって冷蔵した。
尾は塩蔵し、大阪の業者に納入した。毛は筆や刷毛、皮は時計のバンドなどに使われた。
骨は、1950年代までは炊いて油を採り、のこった骨は天日乾燥で肥料にした。牛の四肢骨は1950年頃まではブラシの柄などの需要もあったが、安価に大量生産できる石油化学製品に押されるようになってすたれた。牛の膝からくるぶしまでの骨は、1957年頃から1967年まで、ボーンチャイナの原料である骨灰に焼成した。窯業試験場との協力で開発して地場産業の万古焼の業者に納入し、一番値段がよかったが、悪臭のために中止した。肥料への加工が最も多く、1956年には圧力釜を導入した。この設備で骨膠も抽出された。
蹄角も細工材料になったが、骨と一緒に蒸製するようになった。肥料のほか、1954年の石油コンビナート大火災で使われた蛋白泡消化剤の原料にもなった。
脂肪は、牛のヘットと豚のラードとを別々に採取した。ヘットには腎臓脂肪・腹あぶら・内臓あぶらを用いた。ラードには膵臓まわりの網あぶらと皮下脂肪などを用いた。平釜を用いていたが、処理量の増加から1975年に密閉型二重釜(フライフード)を導入した。
血液は、昔は川に流していたが、処理量増加のため1950年代頃から乾血を製造し、肥料・飼料に使った。1969年にと場に汚水処理施設が設置されるまで続けた。
牛の脳はドラム缶に集めて、半年くらいかけて貯めてから、奈良の鹿皮脳漿鞣業者に1955年頃まで納入した。木の栓で打ちつけたが、輸送には苦労があった。
前近代に「斃牛馬」の利用がどのように認識されていたのか、そして明治4年を経て、明治10年前後に牛骨焚上げから近代的「化製業」の成立がはじまったようだが、その転換はいつで、誰が鍵を握るのかを、明らかにしたい。また、滋賀の調査では「ごみ皮」ということばが聞きとられているが、業者が自分で言うのを聞いたことがない。食肉関係者から化製業者への視線はきびしく、部落内あるいは食肉産業全体のなかでの位置を考えねばならない。
以上の報告をうけて、討論では、各地の化製業の歴史や製法の近代化、主力製品や原料調達などの実態、と場との関係などについて、意見交換がおこなわれた。
最後に、報告者から次のような提起があった。「いのちの食べかた」という海外のドキュメンタリーがある。牛をノックベーンに追いこんで眉間に針を打ちこむところで終わる。と場の撮影に制限をかけているうちに、このような映像が流通している現実が先行している。このような状況にたいして、みずから打って出なければいけないのではないか。
なお、報告者の著書『モノになる動物のからだ』(批評社、2005年)を、あわせて参照されたい。
(文責:廣岡浄進)
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