調査研究

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大阪の部落史通信・14号(1998.6)
『南王子村村格一条』の広げる世界

 この号が手元に届く頃は大阪人権博物館で『高札』展たけなわ(会期四月二一日〜六月二一日)のはずである。五〇点近い制札・高札の現物がところ狭しと囲繞する様はそこに立つ者を圧倒する。江戸時代の庶民も高札の、人を睥睨するかの如き威力の前でさもそうであったかと思える体験をするだけで足をはこぶ値打ちがある。

 展示工夫がされていて、たとえばここに紹介した図も大坂三郷と周辺の高札場を一目する。図録にも載せられていないし、会場でも高札や絵図、名所図屏風に錦絵の見目楽しい色鮮やかな展示物の影に押しやられているが、どうして内容豊かな図である。私の問題関心からも高札場といっても広狭二様(一〇点近く林立する場と特定高札のみ掲げられた場)、あるいは奉行所管轄の場と町村管理の高札の区分があったこと、高麗橋・

 天満橋・京橋・上本町・日本橋、それに難波・長堀・平野口町が代表的高札場でほとんどが橋のたもとにあり、それは江戸・京都でも同じであったこと、ところが日本橋のほかなぜかいずれも大坂の名所図絵には描かれていない。その高麗・日本橋高札場は心中未遂者(元は死骸も晒した)を晒し者にするところ、つまり高札場は有力な露地交流と情報発信基地でもあった、等々。あまりもったいないので無理をいって転載させてもらった。

 ところで今回の展示で釘づけになったものが二つある。一つは乞胸・非人鑑札である。初めて知った驚きもさることながら、『カムイ伝』にまったく同じ図柄を見た記憶がよみがえり、白土三平が早くに実見していたことに感心したからである。もう一点が『御用留』(正式の表題は「明治三午年八月 村格一条ニ付御用留 南王子村」個人蔵)である。

 いま風ないい方をすればB5判袋綴じ二〇〇頁の和装本に釘づけになった理由、ひいてはこの史料の価値を理解してもらうのにはすこし説明がいる。

 これは南王子村の史料でありながら『奥田家文書』には入っていない。泉州の郷土史家から借覧して七八年に森杉夫が初めて全文紹介した。発表誌(大阪府立大『部落問題論集』2)もあって、管見ではその後採り上げられたことはない。森自身紹介史料のスゴさ重要性を理解していたか、解説の限り史料を逐条的に追うに留まった感がある。かく言う私は村方騒動に強い関心を抱いていたからすぐさま入手して読んでいるが、通り一遍の読解をしてそのうち忘却した。

 光を失った玉を琢いたのは久留島浩である。九二〜四年もっぱら支配の側から位置づけられる高札を「村にとっての高札の意味」を問う、として立て続けに三本の論考が書かれた。そこで中心史料として用いられたのが『村格一条』だったのである。私的にいえばそれで再読する気になったのではない。久留島は文字通り高札の考察に忙殺されていて(因みに氏は恐怖の駄洒落魔である)、高札に興味のない私は与三郎ではないがそんなものかと思っただけだった。この度の企画に誘われなければ精読するのはずっとのちの事になっただろう。

 ともあれ『村格一条』の重要さにたどり着いたが、その現物が現前するとは思ってもみなかったから、久留島さんの寒い駄洒落で凍りつくように、この史料の前で凍りついたのであった。

 森や久留島への違和感を抱いていると言った。つづめて考えてそれは彼らがこの一件史料を書誌も含め丸ごと読み解く方向で採り上げていないからだと気付いた。つまりは本件はまだ本格的な吟味を経ていないのである。偉そうな物言いをするが、大阪の部落史に関わり、渡辺・南王子の事情に多少通じた現時点でなければ、再読したとて推理小説を読むが如く尾てい骨が痺れるほどのスリリングな興奮を覚えることはありそうにはなかった。登場する多くの人物にどこかで(もちろん史料上で)会っているからである。

 まずこの史料は奥田家文書から分離したものではなく、したがって書き手も別人であろう。表紙中央に御用留とあり、刊本『奥田家文書』4・5巻に同種文書が収録されているが後期全部左端に庄屋名があるが、これにはない。当時二人いた庄屋のうちの三右衛門筋で記録されたことは、内容でも庄屋利右衛門を歌舞伎役者のように芝居掛かっていると揶揄しているし、冒頭村役罷免申渡しの呼び出しに三右衛門の名しかないことからも明らかである。史料の性格がそうだとすれば、過ぎる天保二年から村を二分する村方騒動があり、単純化すれば農業派と皮革関連業派のヘゲモニー争いで、終始攻勢だったのは後者、記録は皮革派の手になり、したがってその人脈の動静と心性が記録に色濃いと見なければならない。村の危機であることは間違いないし、「村中惣連判」で嘆願されたこともその通りであろうが、それをどの視点で見ているかが問題なのである。実際天保騒動の立役者五兵衛の子の「小間物屋惣助」がここでは活躍する。

 原史料をつぶさに検討すると嘆願書を記録した部分と、経過や私見を挟んだ部分で書体が変わっている。手が変わったというのではなく、嘆願はていねいに写し、それ以外はやや小ぶりにくずし方も荒く、それこそ芝居掛かった言い回しと多くの振りがな(カタカナ)がつけられている。つまりこれは声を出して読むことを念頭において纏められているのである。「勝利」のあとで一気に書かれた事も含め、一揆文学のジャンルに入れていいものである。その限りで誇張もあれば脚色もあったと考えなければならないだろう。

 明治三(一八七〇)年七月二七日堺県に呼び出された南王子村庄屋・年寄は1王子村への合併 2庄屋・年寄役罷免 3下渡してある高札の返還 を命じられた。『村格一条』は九月一三日に合併撤回を勝ち取るまでの闘争記録である。

 記録から読み取れる第一の特徴は彼らが始めから藩領を越えた戦略で行動していることである。府藩県三治体制を無視しているのでなく、その弱い環を攻めることで事態を動かそうというのである。維新政権が薩長政権であることを知っている彼らは薩摩に牛骨を納めている渡辺村明石屋又七を通じて薩摩藩役人から圧力をかけるのである。そればかりではない。維新政府が公家政権であるところから、天部村有力者播磨屋利兵衛に手蔓を求める。利兵衛は太鼓屋と号し手広く商いをしていた。

 第二に記録では途中、東京民部省へ直訴するに際しての密航船の情報を得るのに渡辺村に頼る下りがあるが、明石屋又七の件を含め発端から渡辺に相談を掛けて戦略協議を行なったことは間違いない。この事実は嘉永年間大坂周辺の皮田村が市中竹皮問屋を相手取って訴願行動を行なったさい、そこに渡辺村が加わっていなかった意味を改めて問われる。

 一・二の広がりを指摘しただけでも本史料が幕末維新期の大坂の部落史に多くの知見をもたらすものであることが理解されたかと思う。リバティおおさかに足を運んでぜひその目で史料を見てほしい。