一八九〇(明治二十三)年六月三日付の『大阪毎日新聞』は、「歌島村貧民の救助」の見出しで、一被差別部落の現状を報じている。一八九〇年といえば、町村合併によって近代行政村が成立し、町村制が施行された後である。
同紙は先ず、「西成郡歌島村大字加島と云へる一部落は、戸数九十余戸の内日々業を執る者二百余人なるが、其職は一般に鞋を作り莚を編み、これを市に売捌き、僅に二、三錢の利益を得てその口を糊」していると述べる。
ついでその気風について「一体に質朴なるのみか忍耐の気質に富み、かつ村中、窃盗・賭博などの処刑を受けたる者はほとんど皆無と云ふ姿」であると述べ、しかも「目下病臥するものとても僅かに三人にて、これも地方貧困者の病める如き梅毒、疥癬など云へるものにあらず、打傷か又老病」であるという。
そして「何分、目下米高にてとても鞋仕事ばかりでは暮しを立て兼ね、現にこの程桜井郡長が巡回し親しく其の実況を視察せしに、食料は碎米と糠を混じたるものにて、身には繿縷をもまとい兼ねたる姿」である。
郡当局は、「斯かる勤倹質朴のものにしてこの有様なるは実に気の毒の次第なり。大いにこれを救助せねばならぬこと」としながらも、ただ金銭や米を施与するのみでは救助の効果が上がらないとして、その生業の原料である藁を与えて、その業を奨励するつもりだ、という。
当時の加島地区の姿はこの記事の通りであったことはほぼ推察できる。しかし、このように「特異なこと」「例外的なこと」としてとりあげられていることは、裏返せば、当時の新聞あるいは部落外の人々が、被差別部落をひとしなみに「貧しい」「風紀がよくない」「不衛生」であるなどとイメージし、なぜそのような境遇におかれているかをかえりみもせず、偏見の眼で見ていたことを語っている。その基準になっていたのは、文明化の度合いや文化の高低であった。
すなわち、この記事は一見実態を忠実に述べているように見えながら、部落の、はては当時の人々の意識を反映して、偏った、あるいはその偏りを一層強めるものになっているのである。 そのことは、翌年八月一七日付の同紙の「西成郡の九不思議」という記事をみてもわかる。
すなわち、この記事は、西成郡の九カ村の他の村にはみられない特異な点をあげている(例えば、掘抜き井戸が戸数に比して格別に多い、逆に良水井戸がない、村の一〇軒に一軒弱が中古物商である、村の宅地・田地がすべて一地主の所有である、村中で一軒も分散したものがない、村の全戸が青物を仕入れてこれを大阪市中で売捌いているなど)が、その九不思議の一つにあげられている加島地区については、記事全体の三分の一も割かれ(内容は前年のものとほとんど同じ)、その記述内容や書き方が同情的であるだけに、記者の他の八カ村を見る眼と異なったものを感じさせるのである。