はじめに
周知のように大原社会問題研究所は、社会運動が大きな盛り上がりをみせた一九一九(大正八)年、大阪に設立され、四九年、法政大学と合併して、その付属研究所となった。大阪にあって社会運動の盛衰を見つめ続けてきた旧協調会文書を中心とする同研究所の所蔵資料は、戦前の大阪の歴史を研究する上で、不可欠のものといってよいだろう。九七年一二月調査に入らせていただくことができたので、その内容を報告、紹介したい。
水平社関係資料
水平社関係資料として、1「水平社運動」(二冊)、2「部落解放運動」五冊、3「下阪正英資料」二冊、4新聞記事切り抜き、がある。1は戦前に大原社会問題研究所が作成し引き継がれているもの、2は戦後、法政大学が整理分類しファイル化したもので、TG(同研究所の整理記号)一(一九二二〜二六年、燕会、全水青年同盟など)、二(一九二七年、福岡連隊、津刑務所事件など)、三(一九二八〜九年、水平社大会、「不良団体」排除など)、四(一九三〇〜三一年、大阪地裁差別事件、選挙闘争など)、五(一九三二〜三三年、全水解消運動、高松差別裁判など)。3の「水平社一」には、同情融和大会、労農党支持連盟、高橋貞樹排斥、福岡連隊事件など、「水平社二」には、関西、九州地方組織、
全水青年同盟などがファイルされている。4の新聞記事切り抜きは二冊あり、一つは一九二二〜二五年、もう一つは、一九二六年のものである。なおこのほかに、裁判関係のコーナーには、福岡連隊爆破事件、奈良水平社騒擾事件や「三・一五事件」などの資料が保管されている。
しかし、これらは渡部徹・秋定嘉和『部落問題・水平運動資料集成』(三一書房、七三〜七八年刊)の中ですでに紹介されているものが多いと考えられるので、収録は最小限にとどめ、主として労働組合と水平社との関係に重点をおいて収録した。
労働運動とのかかわり
年代の古い順に紹介する。出典はとくに断りのない限り、協調会資料とお考えいただきたい。
●一九二三(大正一二)年
日本労働総同盟(総同盟)と、その傘下の向上会(大阪砲兵工廠の労組)とは、深い同盟関係にあり、有力な支援団体であったが、水平社との対応については、両者に相当な「温度差」が感じられる。
総同盟が同年一一月一七日の委員会で「労働党組織ハ単ニ労働組合ノミニテハ大ナル勢力ヲ成ス能ハサルヲ以テ等シク無産階級タル農民組合、水平社ヲモ引入レザルベカラズトノ説有力ナリシモ水平社ヲ引入ルルコトハ與論ノ如何モ考慮スベコトニテ慎重研究ヲナスコトトナル」と、一定の距離を置いたのに対し、向上会は同月二三日の大会で、普選実施の方策として「総同盟、日本農民組合、水平社等ト提携シテ審議会ヲ設ケル」とした。向上会が、総同盟よりも水平社と深く接近したのは、それまで同労組の顧問をしていた賀川豊彦の人道主義の影響に負うところが多かったものと考えられる。
なお、大阪支所同年七月二一日付の報告書「労働組合員数之件」には、「大阪皮革工組合三十名」という記載がある。この組合が被差別部落の労働者を組織していたかどうかは不明であり、今後調査が必要である。
●一九二四(大正一三)年
前年三月「青十字ノ木本正胤君ノ斡旋ニ依ツテ」「水平記者倶楽部」結成の報告がなされていたが、この年四月一二日発起人会が実施されることとなった。「該倶楽部員の記章ヲ付スル者ニ対シテハ水平社ハ無条件デ会合ニ列席セシムル事……」などの報告記事があるが、結成大会が開かれたかどうかは確認できない。
同年のメーデーに、「水平社同人ハ絶対に参加シテハナラヌトノ厳命デアッタガ同人ハ組合員ニ装ツテ参加」と報告され、西郡水平社五名、西浜七人との数字もある。
●一九二五(大正一四)年
第一次分裂前の総同盟は、顕著な左傾化傾向が見られた。一方、水平社も青年同盟などに代表されるようにボル系の色彩を強めた。二月一五日の「治安維持及争議調停二法案反対示威運動」(中之島)には、大阪水平社本部一〇、全国水平社青年同盟一〇、西大阪水平社六、大阪少壮水平社四、計三〇名が参加し、大阪水平社本部の山本正美の演説は中止を命ぜられた。また、同本部の中川清造は「労働組合員及一般無産者諸君ト共ニ相接近スルコトニ依リテ吾人解放ノ日ハ促進セラルルナリ而シテ無産者解放運動ハ水平社ト提携スルコトニ依リテ達成セラルル」と演説した。周知のように、総同盟分裂後、青年同盟は高橋貞樹らを中心に左派の日本労働組合評議会と接近を深める。
●一九二六(大正一五)年
一〇月二二日、全国水平社労働農民党支持連盟創立大会(本部・大阪)が開かれた。「宣言」、「規約」が残されている。運動方針に「労働農民党ニ部落民ニ関スル政策項目挿入ノ要求」「部落民ノ政治的経済的利害ノ擁護」が掲げられた。
一二月の日本農民組合第四回常任執行委員会は、「水平社同人の苦痛は同時に同じ被圧迫階級としての吾等自身の悩みでなければならぬ」とし、「勇敢なる水平社同人と固く握手せよ!」と決議した。
●一九二七(昭和二)年
七月南海電鉄争議が激烈を極め、前述の労働農民党支持連盟は、争議応援共同委員会に加盟した。同委員会の手で一八日舳松町民大会が開かれたことが、「南海争議ニュース」に見られる。
なお、この年以降の労働争議の記録には次のようなものがある。
岩橋皮革(栄町、二七年)、濱元皮革(西浜、同)、小林皮革(西浜、同)、由本皮革(中開、同)、二見搾油人毛(安中、二九年)、山森皮革(栄町、同)、吉川靴製造(西浜、三一年、朝鮮人労働者)、野本パイプ(北蛇草、同、同)、八尾燐寸(安中、三三年)、大阪製靴工業組合(三九年)。
●一九二八(昭和三)年以降
三・一五事件以後、水平社運動が停滞期に入るためか、水平社と労働運動に関する資料は少なくなる。しかし、無産大衆党↓全国労農大衆党を舞台に、栗須喜一郎、栗須七郎らが浪速区を中心に活躍したことがうかがわれ、大阪労働学校に水平社から、少人数ながら学生が派遣されたことも分かる。また、大阪皮革労働組合の記録もあるが、大串夏身氏の論稿(「全水大阪と労働運動」『部落解放研究』第二八号所収、八二年一月など)に委ねたい。最後に、西浜の「サカヱ消費組合」(一九三三年)、反水平社の立場ながら、「差別観念絶滅のために体刑による特別取締法制定」というラジカルな解放指針を打ち出した「大和民族協和会」(一九三四年、本部・中河内郡弥刀村=現東大阪市)についても、資料を収集したが、紙数も尽きたので紹介は後日を期したい。