日清戦争と日露戦争の戦間期、日本における第一次産業革命期の一九〇二(明治三五)年一〇月から一一月にかけて、『大阪毎日新聞』は二三回にわたって「一種の社会」(予告では「社会観察 一種の平民」)と題した記事を連載し、部落問題をとりあげた。時あたかも、近代の社会問題が取り沙汰しはじめていた頃である。
筆者「冷々生」は、被差別部落を特異な社会とし、「頗る面白く意想外の事多き」と好奇の目で見ている、その一方で、部落民はかつて「えた」としてさげすまされてきたが、今や「解放令」によって同一の平民となっており、「新平民」と「新」の字を加えられているがその必要はない、とも述べている。しかし、連載の中身、筆致などをみると、時代の制約から、伝承にたより世間の偏見によりかかっている箇所が多く見られる。そして、一部落を研究したならば他の部落の状態も自ずから推知できるとして、当時の西浜町をとりあげている。
(一)まず、「西浜部落」では、部落の現状を比較的よくとらえているように思われる。すなわち、人口が多いこと、知識が発達していること、富商が目立つこと、部落の細民が徐々に地区から押し出されて近接の地に住むようになっていることなど。そして北通四丁を大阪市中の天満に、中通・南通各三丁を同じく市中の船場に比定した上で、およそ市中で販売され需要されるものはすべて備わっているとして、夜市について次のように述べる。
この「至極調法な夜店が、天気でさへあれば、毎夜屹度町の西方、十三間川沿岸に開かれる」「西浜部落の民はこれを素見しながら三々五々笑ひ興ずるのを、無上の快楽として、昼の疲労と煩悶とを慰藉するのである」(一〇月一七日)という。
(二)次に「徳川時代の穢多」では、座摩神社から分離されて、西区幸町、湿地帯である東成郡野江村、さらに木津村新田へと移転させられたといういきさつや、部落民の苦難や再三再四にわたる請願などを述べて、「えた」の境遇について次のようにいう。「踏んだり蹴つたりとはこの事である。人一倍納税は徴収される、忌な役務には引立られる、そしてその上邪魔になるの、穢ないのと存分の熱を吹かれて、追まくられる、彼らもまた人の子だ」、欲望をみたしたいとしても「だがそれは先づ贅沢の沙汰、分外の望みとしてせめて普通民の住む町を闊歩、でなくてもコソコソ通る事でさへも許されぬとあつては、彼等の心事そも何うであったらう」(一〇月二五日)。
(三)「部落の団結」では、「幕府の圧制と普通民の虐待とは、彼等の押ふるに由なき反抗心を変形せしめて、彼等部族の同心協力即ち団結といふものを一層強くなさしむるに至つた」(一〇月二六日)ことから説きおこし、部落に自治政体ともいえるものの成立に叙述が及んでいる。
その組織は、今の市政よりも住民に立ち入った場合もあり、市長、助役、区長に当たるものがいて、「部落内における悶着、商取引、婚儀の類から万般の事柄を管理するので、実は行政警察の一部をも握つて居つたのである」(一〇月二六日)という。
以上の他、西本願寺との関係、部落の富者および細民の生活などをとりあげ、最後に、部落産業である皮革が日本の有数の貿易品であるところから、「普通社会」はむしろこの「生産的種族」(部落民を指す)を歓迎しなければならない、と結論している。