はじめに
本稿で分析の手がかりとする成舞家文書は、現在、大阪城天守閣に寄託されている。同家は、摂津国西成郡下難波村(元禄一三年(一七〇〇)より難波村)の旧家であって、明治期に戸長を務められた関係から旧庄屋文書が同家に引き継がれたということである。
同村内には、道頓堀の「非人」集落があったため、成舞家文書の中には、「非人」関係史料が相当数含まれ、これらは、岡本良一・内田九州男両氏の努力によって『道頓堀非人関係文書』(上・下巻、清文堂一九七四年・一九七六年)として既に公刊されている。
また、同家の文書のうち「古来 新建家目論見一件」は、大阪市史編纂所より『大阪市史史料』第十輯として、一九八三年七月に公表されている。
ところで、同村内には元和年間(一六一五〜一六二四)頃から「穢多」身分の人々の村・渡辺村が存在していた。そのため、成舞家文書の中には、渡辺村関係の記録も含まれている。
本稿で分析の対象とするのは、それらの関係史料のうち、延宝五(一六七七)年六月の「摂州西成郡下難波村検地帳」、元禄一二(一六九九)年閏九月の「御用地代り穢多跡屋鋪割方帳」 (写)および宝暦七(一七五七)年六月の「摂州西成郡難波領之内幸町御用地改帳」である。これらの貴重な古文書の閲覧・撮影・利用を承諾していただいた成舞家、ならびに閲覧・撮影にご協力いただいた大阪城天守閣関係者の方々に、ここで改めて厚く御礼申し上げる次第である。
一 木津村への移転前の渡辺村屋
敷地の状況
延宝五年の下難波村(天領)の検地帳は、一番から四番までの四冊からなるが、渡辺村の屋敷地の記載が出てくるのは、三番の検地帳である。
下難波村百姓の屋敷記載の後に、徳浄寺以下、六三筆、計一町六反三畝一八歩、高にして二四石五斗九升分が列記されている。「かわた」や「穢多」の肩書きは、見られない。一軒で複数筆の屋敷を所持している場合もあるので、整理すると、寺も含めて四七軒となる。
それらを屋敷地の多い順に整理したものが、次頁の表である。なお、これら検地帳記載の分は、言うまでもなく年貢地の分である。渡辺村は、年貢地五六八〇坪の他に免租地七五五五〇坪を持っていたとされるので(「役人村由来書」盛田嘉徳解説『続摂津役人村文書』)、年貢地の分は、計算上、渡辺村屋敷地全体の四三%弱を占めるにすぎない。しかも、実数上では、年貢地一町六反三畝一八歩は、四九〇八坪であるから、実際に渡辺村屋敷地全体が一万三二三〇坪であったとすると、この検地帳に記された屋敷地の分は、全体の三七%にしかならない。
したがって、ここに出てくる四七軒が、当時の渡辺村の屋敷所持者の総数を示しているわけではないが、この検地帳によって少なくとも年貢地に屋敷地を所持していた渡辺村住人の屋号と名前および屋敷地の広さが判明するわけで、その意味で貴重であると判断される。
豊後屋喜左衛門と岸部屋三右衛門は、一反余の屋敷地を所持している。豊後屋喜左衛門家は、一八世紀には渡辺村の年寄(もう一人の年寄は讃岐屋仁兵衛)を務めた有力な家であったし、岸部屋三右衛門家は、和漢革問屋とされる一二軒のうちの一軒であった。
一軒当りの平均屋敷地は、一〇四坪余(三畝一四歩余)で、かなり広い。下難波村住民の屋敷地の平均面積については、時間的制約のため算出できていないが、参考までに他の事例を紹介しておくと、文禄三(一五九四)年の摂津国芥川郡富田村内の「かわた」の屋敷地平均面積は、一九・四坪(本村は五二坪)、同年の河内国丹北郡更池村内の「かわた」のそれが二四坪(本村八五坪余)であった(拙稿「近世部落の成立過程の具体相―大阪府域を中心として」(『新修大阪の部落史』上巻、解放出版社、一九九五年))。渡辺村のこの数値は、前述のように、年貢地の分だけであるから、免租地の分を含めて考えると、さらに広くなる可能性もある。
延宝五(一六七七)年より一五年後の元禄五(一六九二)年の渡辺村人口は八四〇人であったから(『大阪市史』第一、四八五頁)、かりに一軒当たりの家族数を五人とする(たとえば元禄八(一六九五)年の堺近郊の舳松部落の場合、戸数四〇戸、人口一八五人で、平均家族数は、四・六人)と、渡辺村には一六八軒ほどあったことになる。延宝五年の戸数はそれより少なくなると推定されるので、渡辺村の免租地軒数は、年貢地四七軒を引いた一二一軒より少なかったと考えられる。
なお、表に注記したように、渡辺村住民の屋敷地の中には、生玉社領が七筆、計二反一六歩(三石八升)が含まれていた。
さらに注目されることは、渡辺村住人が屋敷地以外に、下難波村内に田畑を所持していたことである。紙幅の関係で詳しい表は割愛せざるをえないが、河内屋吉兵衛が上畑等二八筆、計二町五反七畝一〇歩(二六石五斗二升八合)、きしへや(岸部屋)三右衛門が中田等二筆、計二反二七歩(四石一升七合)、ぶんごや(豊後屋)喜左衛門が中畑一反五畝一六歩(二石一升九合)、河内や三郎兵衛が中畑三畝一六歩(四斗五升九合)、合計二町九反七畝九歩(三三石二升三合)を所持していた。これらの田畑を農業に使用していたのか、皮革生産に用いていたのか、その究明は今後の課題とせざるをえないが、いずれにしても興味深い事実が浮かび上がってきたわけである。
二 木津村への移転事情とその後の状況
渡辺村の木津村への移転決定時期については、大阪市史編纂所所蔵木津村文書等によって元禄一一(一六九八)年であることが確定されたが、成舞家文書の元禄一二年閏九月の「御用地代り穢多跡屋鋪割方帳」(写)に「元禄十一年寅年、御用地に右穢多屋鋪不残被召上、穢多此所御払被成候」等とあることによっても裏付けられる。そして、移転の理由が、渡辺村の屋敷地が御用地に召し上げられたことにあることも、改めて明らかとなる。
ところが、「穢多屋鋪」のすべてが御用地として召し上げられたのではなく、実際にはその四分の一程度にすぎなかったことが、成舞家文書の宝暦七年六月の「摂州西成郡難波村領之内幸町御用地改帳」によって判明する。それによれば、御用地として召し上げられたのは、年貢地分の屋敷地については四反三畝二一歩だけであった。これは屋敷地(年貢地)全体の一町六反三畝一八歩の二六・七%にすぎなかった。したがって、こと年貢地の屋敷地に関するかぎり、その分だけの代替地を確保すればよいわけで、全面移転の必要はなかったように推量されるのである。おそらく領主側としては、渡辺村のあった下難波村幸町界隈の市街地化を考慮に入れて、そこに渡辺村の存することをよしとせず、川筋普請のため、一部召し上げにことよせて差別的に一挙に摂津国西成郡木津村(天領)への全面移転を決定したのではないかと思われる。
さて、御用地として召し上げられた旧屋敷地は、天領二反八畝二歩・生玉社領一反五畝一九歩、計四反三畝二一歩であったが、下難波村としては当然のことながら天領の二反八畝二歩・四石二斗一升分は、そのとき御用地として召し上げられた村内の他の土地と同じように、「潰地」として村高から差し引かれることになった。
御用地として召し上げられなかった残りの部分(生玉社領は除く)は、「屋鋪跡」として、下難波村村内で召し上げられた各人所持地の二三・八%の割合で、再配分されたのである。その帳面が、元禄一二年の「御用地代り穢多跡屋鋪割方帳」(写)である。「屋鋪跡」はすべて上畑扱いとなった。この際、渡辺村の河内屋吉兵衛が一反四畝一六歩(二石一斗八升)を、河内屋三郎兵衛が一畝二〇歩(二斗五升)を、それぞれ割り付けられている。
生玉社領分の「屋鋪跡」四畝二七歩は、下難波村の「村中惣作」とされた。
元禄一一年に木津村七反嶋への移転を命じられた渡辺村は、翌年から移住を開始したが、その地は水害にあいやすい場所であったようである。そのため、住民たちは、再度、所替えを歎願して、元禄一四年五月に同村内の堂面に屋敷地が与えられたので、そこへ引っ越しを始めたのである。この間の詳しい事情については、拙稿「摂津役人村の木津村への移転時期と移転先の状況について」(『部落解放研究』第一一八号、一九九七年一〇月)を参照していただければ幸いである。