調査研究

各種部会・研究会の活動内容や部落問題・人権問題に関する最新の調査データ、研究論文などを紹介します。

Home > 調査・研究 > 大阪の部落史委員会 > 各号
前に戻る
大阪の部落史通信・16号(1998.12)
大阪の考古資料と部落史ノート

積山 洋(財団法人大阪市文化財協会)

一 貝塚市東遺跡の問題提起

一九九七年二月、貝塚市の東遺跡で獣骨が多数投棄された一五世紀の土坑が発見された。そこが現代の被差別部落の一角であったため、その起源問題に大きな一石を投じたとして、本紙第九号や同年六月二日付『解放新聞』で大きく取り上げられた。その六月には大阪歴史学会の考古・中世・近世の三部会が合同シンポジウム「中世獣骨群投棄遺構を考える」を開催し、多数の参加を得たが、その際、重要な問題がいくつか明らかとなった。

そのひとつは、研究者のなかで遺構の評価が必ずしも一致しないことであった。文献史の側では、和泉の麻生嶋村で一五世紀段階には牛馬の解体処理にかかわる草場権が成立していたという見解が強く見られたのに対し、考古学の側では概してそうした見方に懐疑的であった。前年から「大阪の部落史」古代部会に所属していた私も、やはり懐疑派の一人であった。ただ、一九世紀の遺構からも多少まとまって獣骨が出土しており、近世被差別部落への連続性が追えることを根拠に、一応は文献史の見解に肯定的な立場をとった。いまでは、中世後期の環濠集落が現代まで継続する例が多いことを勘案し、シンポ当時以上に肯定的に考えている。

ふたつめには、調査担当者が述べたように、獣骨遺構の存在を除けば、東遺跡は普通の中世後期環濠集落であるという点にあった。中国製品を含む出土陶磁器の様相からも、とりたてて社会的・経済的な特徴は見出しにくいという。これは重要な基礎的知見である。しかしそれは一方で、運良くこの種の遺構を発見できない限り被差別部落を確認する手掛かりがないことを意味し、したがって社会的観念の所産である身分差別の問題が、大地に密着した学問である考古学で扱えるのかという疑問を、少なくとも私は感じた次第である。これが考古学研究者が消極的な立場をとった理由であろう。

その根底には、考古学にとってこの分野が未経験であったという事実があることはいうまでもない。

二 考古学はいかにして部落史を射程に入れるのか

私は、考古学の立場でどんな部落史ができるのか、私なりに考えてきたが、明快な方向を見出せないままであった。それはいまでも変わらないが、ここでは目にとまったいくつかの研究に触れながら、今後の方向を模索してみたい。当面、私は以下の三点に注目すべきと考えている。

(1)動物利用

これについては多言を要しない。人間と動物の関わり、特に牛馬処理の実態を探ることは、それを行った人間の存在を知らしめる。もし、それが一回きりの解体ではなく、質量ともにその地の人々の生業を示すほどのものであれば、重要な資料となることが明らかであろう。このテーマは従来、食物史や手工業史として研究されてきたが、松井章氏は「考古学から見た動物利用」(『部落解放なら』八、一九九七)などで、古墳時代以後の牛馬骨の出土例をもとに、骨・肉・皮さらに馬の脳などの利用の実態、その処理にあたった集団の系譜、肉食の実態などに迫り、考古学からの部落史研究に大きな土台を据えられた。また本紙第十一号にも登場した久保和士氏は、近世大坂の町場と骨細工のありようなどを精力的に追跡している。

この点で注意されるのは大坂の船場北部でみつかった中世の遺構である。大川にほど近い中央区道修町一丁目では、中世後期の遺構から、東遺跡ほど多くはないが解体痕のある牛馬の頭骨や肢骨がまとまって出土している。熊野街道の起点となる渡辺津が大川に面して、天満橋から西のこの付近にあったということから、当然、一六世紀末に豊臣秀吉によって移されたもとの渡辺村との関連が想起されるわけである。

(2)職能民

前項の動物利用と不可分のことであるが、ここでは中世の武家の都である鎌倉の例をあげる。都市鎌倉の中心は鶴岡八幡宮からまっすぐ南西に走る若宮大路とその周辺の街区であるが、さらに南の由比ヶ浜一帯の「前浜」地域は民衆の居住地とみられ、小規模な掘立柱建物や方形竪穴建築址が集中して見つかっている。この地域では鋳造・銅細工関係の鋳型や鉱滓・フイゴの羽口、漆工芸のヘラ・ハケ・漆容器や、解体処理された牛馬骨、さらに骨細工の刀装具と未製品などが出土し、さまざまな職能民が存在したと推定されている。職能民の実態を探る研究は京都でも進められている。大阪府下では中世はまだ鋳物師関係を除くと資料不足であるが、豊臣期以後の近世大坂や堺の様相は次第に判明しつつある。

ただ、民衆の生業を丹念に掘り起こす仕事においては、動物利用の実態もその全体像のなかに位置づけることが不可欠であろう。そのなかで牛馬解体のあり方が、他の職能民の動向と一貫して同じなのか、ある段階から異なるのか、などという問題が見えてくるはずであろう。

(3)穢れと祓え・禊

罪と穢れについては近年、中世の身分差別の重要テーマとされており、文献史から森明彦氏によって、その古代的ありようの究明が提唱されている。まだ考古学では研究の蓄積がないが、律令的祭祀としてのテーマならそれなりの研究史がある。それらを基礎としつつ、木製の人形・舟形・斎串、土製馬形などの形代や、人面墨画土器などのさまざまな祭祀具を素材として、穢れを祓い、或いは身を浄める行為の痕跡を探るのは重要な課題であろう。

例えば、これらの祭祀具が古代都市である難波京において、どのような分布を示すか、現状での実態だけを略述しておく。問題の祭祀具は主に難波京の東縁や西縁の水辺で出土している。難波宮でも出土しているが、その地点は宮殿の西北隅にあたり、かつ湧水池である。これらに共通するのは水場での出土ということであり、水の霊力で穢れを浄める行為(禊)を示すのかもしれない。それはともかく、こうした儀礼が執行される場が京の周縁の地であり、また京の核心である宮においてさえ、その縁辺部で行われるという傾向がうかがえよう。

三 今後の課題

以上の三つのテーマについて、目的意識的に関連する遺構・遺物の事例を積み重ね、或いはすでにみつかっている資料の読み替えを始めていかねばならない。

しかしより重要なのは、蓄積した事例にいかなる歴史的視座を与えるのかということであろう。身分差別が人と人との関係である以上、人々のそういう社会的関係は、多数の人口が集住する場において、より鮮明かつ多様に交錯するだろう。武家の新興都市鎌倉では都市の中心と周縁の対比を通じて、遺構・遺物がそれを浮かび上がらせつつある。あるいは律令制以来の伝統的な都市京都の場合、坂・河原のみならず都市の内部でもそうした視点の研究が可能かもしれない。前節の三つのテーマはばらばらのものではなく、みな密接に関連しあっているが、それらをつなぐキイ・ワードのひとつは「都市」ではなかろうか。その意味で部落史とは、実はそれぞれの時代の都市論の課題ともいえるのであろう。

大阪は古代の副都(難波)であり、中世後期の本願寺寺内町、近世初頭の豊臣期以来、都市の伝統をもつ。京都や鎌倉と都市化の歴史が異なるこの地では、被差別部落の歴史も独自の展開を見せるかもしれない。そして東遺跡の例を考えると、都市と村落という観点もまた不可欠と思われる。時間はかかるだろうが、じっくりと取りくみたいものである。