調査研究

各種部会・研究会の活動内容や部落問題・人権問題に関する最新の調査データ、研究論文などを紹介します。

Home > 調査・研究 > 大阪の部落史委員会 > 各号
前に戻る
大阪の部落史通信・16号(1998.12)
大坂の大道芸人

中尾健次(大阪教育大学)

はじめに

"大坂の大道芸人"に関する研究は、決して少なくはない。しかし、それを"被差別民の生業"として位置づけたものとなると、皆無に近い。

芸能史の分野では、土居郁雄「近世大坂の見世物年表」(『大阪の歴史』三五〜三七号)のように、大道芸を含む見世物全般を網羅した総括的な研究もある。ところが、この土居氏の、綿密かつ詳細な年表にも、被差別民衆の姿は、全くといっていいほど登場しない。逆に部落史の分野では、"大道芸人"に触れたものがない。後述するように、内田九州男氏の研究に"非人"の芸能に触れたものが若干ある程度である。

これが、芸能史および部落史における、研究の視点に由来するものなのか、それとも、これ自体が"大坂の大道芸人"の特徴をなすものなのか、この問題を考えることも、どうやら本稿の課題となりそうである。

1. 芸能史の研究成果から

土居郁雄氏の「近世大坂の見世物年表」は、延享三(一七四六)年から明治二〇(一八八七)年にかけて大阪市内で催された見世物を網羅したもので、出典として『摂陽奇観』『至享文記』『あすならふ』『あすならふ拾遺』『年代記』『近来年代記』が使われている。見世物の範囲は広く、孔雀・インコ・駝鳥・鯨などの鳥獣類の見世物、エレキテル・ビイドロ細工の展示など、簡易博物館の様相を呈しているが、大道芸に関するものとしては、「軽業」「役者顔似せ」「素人芝居」「手妻からくり」「曲三味線」「素人浄るり」などが、数多く挙げられている。

江戸の場合、これらの大道芸は、"非人"や"乞胸""願人"によって演じられており、被差別民衆との関係を抜きにしては語れない。大坂の場合、"乞胸"は居ないが、"非人"や"願人"は居る。にもかかわらず、土居氏の年表には、被差別民衆の姿がほとんど現れないのである。たとえば寛政二(一七九〇)年六月に、難波新地で「乞食芝居」が催されているが、これなど例外中の例外である。内容は、「是ハかどかどへ来る乞食、かふきのおもかけ大に沙汰あしく、二、三日ニて休ム」とある。身振り声色の天才であった江戸の"非人"松川鶴市を思い出させるが、大坂の「乞食芝居」の方は余り上手でなかったようで、二、三日で休演となっている。

物真似芸は、江戸では"非人"の特徴的な芸とされていたが、大坂ではこの程度で、"非人"や"乞胸""願人"の芸としては、全く挙がってこない。これは、1実際には被差別民衆が関わっていながら、それを"被差別民衆の芸"と見なす意識が比較的希薄であったか、2被差別民衆が、これらの大道芸に関わっていなかったか、3この両者の混合によるものか、どれかであろう(結論としては3が最も近い)。

2. "非人"の仕事について

次に、「非人」研究の成果から見ることにしよう。これについては、内田九州男「大阪四ケ所の組織と収入」(『ヒストリア』一一五号)が、最も総括的でまとまった研究といえる。内田氏は、「四ケ所非人」の収入を、まず町からの諸収入、非人番からの上納金、労働による諸収入、代官所手当、の四種類に分ける。さらに、について細かく紹介し、1節季候・大黒舞・鳥追い、その他奉加もの、2垣外番、3吉凶祝儀、4四ケ所札の四種類を挙げている。この内、"非人の芸能"と見なしうるのは1と3である。

1の節季候・大黒舞・鳥追いは、江戸でも"非人"の代表的な芸と見なされている。これは、暮れと正月に廻ってくる"門付け芸"で、季節が限定されている。そのせいか、これらの"門付け芸"は、次第に形式化する傾向にあったようだ。4の「四ケ所札」がそれに当たる。

「四ケ所札」は鳥目八○○文の札で、"非人"組織の「若キ者」が、年末にこれを大坂三郷の家々に配って銭を集める。この札を貼ってある家には、節季候・大黒舞・鳥追いによる祝儀を申し受けることができなかった。つまり"非人"の節季候・大黒舞・鳥追いは、"芸"を媒介としない形式的な"門付け"に変質している。こうした変質がいつごろ起こったのか、あるいはどの程度に広がったのかを調べることも重要な課題であるが、残念ながら、現状ではそれを特定することができない。

では、3の「吉凶祝儀」はどうか。これは、婚姻・葬礼など、さまざまな吉凶に際し米銭を貰うもので、季節を問わず家々を廻って歩く。しかし、これも"芸"を媒介とした"門付け"であったかどうかは疑問だ。「町中祭礼法事等之時節」「押乞致候而あはれ候非人有之ハ、無用捨搦候而成とも、番所へ召連云々」(享保一三(一七二八)年六月二七日の布令。『大阪市史』第三巻二五七頁)といった史料は枚挙に暇がなく、強引に米銭を乞う"悪ねだり"の印象が強い。

このように見てくると、少なくとも大坂の"非人"組織に関しては、生業としての大道芸には従事していない可能性が高い。

3. 「無宿非人体」の大道芸

しかし、「無宿非人体」の者が、大道芸に従事していないわけではなく、主として幕末であるが事例は少なくない。たとえば文政一二(一八二九)年一〇月の布令では、「無宿非人体之者」が、町屋の門先でみだりに「歌舞伎狂言体之芸」をしないよう触れており、同様の布令は天保一一(一八四〇)年二月、弘化元(一八四四)年四月にもある(いずれも『大阪市史』史料編)。ここでいう「無宿非人体」は、いわゆる"野非人"である。江戸ならば、彼らは"乞胸"として組織されたにちがいない。「歌舞伎狂言体之芸」という"芸"の内容も、江戸のそれと似通っている。

参考までに、天保一四(一八四三)年五月の布令には、「神道・軍学講釈・昔噺・小見世物等」という"大道芸"の内容が挙げられており、さらに弘化二(一八四五)年一月の布令では、「昔噺・神道講釈・心学道話・軍書講釈、右四業之者」とあり、"四業"という文言が使われている。"乞胸"の一二種(綾取・辻放下・説教・物読・講釈・浄瑠璃・物まね・仕形能・江戸万歳・猿若・操り・辻講釈)に比べると少ないが、内容はよく似ている。

大坂の場合、"乞胸"という「半賤民」(寺木伸明氏)身分の存在しなかったことが、大道芸が被差別民衆の生業として認識されなかった背景にあるように思われる。しかし、大坂町奉行は、少なくとも"無宿非人体"として認識しており、市民との間にズレがある。土居氏の年表に「無宿非人体」の芸として紹介されていないのは、こういった市民の認識が反映しているからではないだろうか。

いずれにせよ、この分野には多くの課題が残されている。結論を急がず、調査を継続していきたい。近世部会の報告(一〇月一七日)では、大坂の"願人"についても紹介したが、すでに紙数が尽きてしまった。他日を期したい。