「大阪ノ皮革製造業ハ慶長年代ノ創業ニ係リ、幾多ノ変遷ヲ経テ今日ノ盛況ヲ呈シタルモノ」と、明治三十年代に編まれた『大阪商業史資料』は述べ、明治三十三年の大阪での熟皮(羊皮)の生産枚数は二七万七五〇〇枚、その金額は一九九万八〇〇〇円であり、そのうち半分は西浜町が生産していたともいう。
そのように皮革製造業は大阪でも有力な産業であったため、『大阪毎日新聞』は明治三十五年三月二十二日から八回にわたって、「大阪皮革製造業」と題する特集記事を連載している。
その内容は、1近世および近代(洋式皮革)の大阪における皮革産業の変遷、2和式・洋式皮革製造法、3馬皮・小獣皮の産額と販路、4牛皮の産額、価格に大別できる。
ここでは、大阪における皮革産業の変遷についてみる。
大阪の皮革製造業は、戦国時代に鉄砲が伝来し甲冑が牛皮によって作られるようになったことに始まる。その牛皮を大阪において専門に製造し始めた業者が、西浜町の皮革業者の元祖であるという。
近世に関しては、越・、池田・について説明をし、いずれも渡辺村(西浜町)がその原料を供給し、製品の販売を一手に行ったことについても述べる。
次に、明治に入って洋式皮革が製造され、それが発展していったいきさつについて次のようにいう。日本の洋式皮革製造の始まりは、陸奥宗光がドイツ式兵制を採用するに際して皮革の製造が必要であったため、明治四年に和歌山に設立した和歌山西洋鞣革靴伝習所である。
そしてこの伝習所を源流として明治十年前後に、西村勝三の桜組(のちの日本皮革株式会社)、大阪網島の梶原黒兵衛の製造場(そこで製造した熟皮を陸軍ご用達の藤田伝三郎に売っていた)、藤田組製革場、大倉組などの創業があった。しかしこれらの製革の目的はいずれも大部分は陸軍に納めるところにあり、一部が靴、革具用として市場に出たにすぎない。それに対して、帯革などの工業用具の製作に目をつけて成功したのが、新田製革場(のちの新田帯革製造所)である。
ところで、この時期、西浜町において洋式皮革製造はどのように伝えられたであろうか。新聞は次のようにいう。
「当時の人民はなほ旧習を固守して西浜一団の人民を疎外する気風存したると、洋式皮革製造業が武士によつて創始されたる等の事情ありて、西浜の皮革業者は容易にこれを伝習する能はざりし」が、程なく、谷沢儀右衛門が西村製革場で技術を学んで明治六年に業を起こしたが、失敗した。この頃、佐々木吉五郎が梶原製革場にいた職工を雇い入れて製革場を起こすことによって製法が伝えられ、一時、百も業者がいて繁栄した。しかし、創業の難しさから成功したものはわずか十数名にすぎなかった。一方、在来の・業は洋皮に押されて一時衰微したが、洋皮の頓挫で盛り返したという。
その後西浜町の皮革業は一時の沈滞を乗り超えて、隆盛に赴いていく。ちなみに、当時、関西産の牛皮は年間約十二万枚、輸入毛皮・生牛皮は年間約十五万枚であり、朝鮮からの牛皮の輸入を最初に手がけたのは西浜町の合阪五兵衛で、これより七、八十年前からという。