調査研究

各種部会・研究会の活動内容や部落問題・人権問題に関する最新の調査データ、研究論文などを紹介します。

Home > 調査・研究 > 大阪の部落史委員会 > 各号
前に戻る
大阪の部落史通信・17号(1999.3)
『大阪の部落史』第七巻の紹介<資料編 現代1>

渡辺俊雄(大阪の部落史委員会企画委員)

いよいよ、刊行間近

大阪の部落史の編纂事業が一九九五年に正式に始まってから、四年が経過した。この間、古代から現代までの資料収集に努めるとともに、時々の研究成果を『大阪の部落史通信』に掲載してきたが、今般いよいよ第一冊目として第七巻<史料編現代1>が近く刊行される。

府県単位での部落史の編纂は、これまでにも京都や奈良など各地で取り組まれてきた。大阪ではむしろ被差別部落ごとの地域史が先行し、大阪全域を視野に入れた部落史編纂事業が遅れていた。そうした先行する経験を踏まえても、実は戦後の部落史関係資料の本格的な編纂は初めてのことである。京都でも奈良でも通史では戦後に言及しているし、資料編のなかに戦後の資料が含まれてはいるが、部落史の全般にわたる戦後だけの資料集の編纂は恐らく初めてのことであろう。

ということは、これまで戦後の部落史関係資料をどのように編纂し、全体として戦後の部落史像をどう提示するかについて、良くも悪くも参考とすべき先例がないということになる。恐らくどのように編纂しても批判が出るだろうが、逆に言えばこれがこれからの部落史編纂の踏み台になるという自負も、一連の難しい作業を支えた意気込みとしてあった。

新規資料を基本に

『大阪の部落史』第七巻が対象とする時期は、一九四五年の日本の敗戦から一九六○年までである。

部落解放・人権研究所では、かつて『大阪府同和事業促進協議会史―二五周年記念誌』や『部落解放運動基礎資料集』『大阪同和教育史料集』など、いくつかの部落史編纂事業を担い、資料集を編集・刊行してきた。そこにも、多くの貴重な資料が掲載されている。本史料編は、原則としてこれまでに活字化されていない新規資料を基本に選択し、必要最小限に限り既刊の資料集に掲載されているもので一部分を補い、全体として戦後の大阪の部落史像を描けるように配慮した。

この時期に関して収集した主な資料としては、まず大阪市公文書館が所蔵している行政文書がある。大阪府の公文書はほとんど所在が確認されておらず、現在のところ利用できない。寝屋川市が所蔵している旧水本村役場文書は、重要な行政文書である。こうした現状のもとで、大阪府・大阪市および各市町村の議会関係資料、特に旧矢田村(現大阪市)と堺市・和泉市・貝塚市・泉佐野市などの議会議事録・議事関係書類は、貴重な資料となった。さらに大阪府立図書館・大阪市立図書館が所蔵する図書・逐次刊行物も、網羅的に調査した。その他、個人所蔵の資料や、大阪人権博物館がこれまでに特別展などの機会に収集した資料、部落解放・人権研究所が過去の調査研究事業のなかで収集してきた新聞記事・運動団体の資料などが『大阪の部落史』第七巻の主要な資料群になっている。

こうして収集した資料のなかから、限られた紙数を配慮しながら実態・仕事・在日朝鮮人・社会意識・運動・行政・教育・文化・市町村合併の九つのテーマに分類して資料を編集した。各分野のなかの資料の配列は、市町村合併を除いて編年としている。

市町村合併をめぐる問題

『大阪の部落史』第七巻の分野別の構成自体、近年の部落史研究の新しい問題意識を反映して、いくつかの特徴を持つ。例えぱ、「市町村合併をめぐる問題」である。

一九五○年代、政府の肝入りで全国で市町村合併がいっせいに進んだ。その意図は、市町村の基盤強化と国による指揮監督権の強化にあったが、それは部落問題にも大きな影響を及ぼした。大阪府が一九五四年に計画した案によれぱ、一一七市町村を二五自治体に統合することが考えられていたが、この二五自治体のうち一三は部落を含む市町村との合併を想定したものだった。

部落差別が結婚と就職ばかりではなく、市町村合併に際しても露骨に現われることは、すでに戦前から経験済みだった。戦後も、部落を含む市町村と合併し部落問題を抱え込むことになる自治体からの抵抗は強かった。今回の史料編に収録したのはごく限られた事例に過ぎないが、それでも旧矢田村と大阪市、旧富田町と高槻市、旧八坂町・信太村と和泉市、旧水本村と寝屋川市のどの事例をとっても、周辺自治体との合併の話は起きては消え、差別事件が起きていた。

部落の側からの合併への姿勢も、地域によって微妙に違う。本史料編に掲載した町村の場合にはいずれも合併に積極的だが、史料編には掲載していないが、『羽曳野市史』を見ればむしろ埴生村の部落出身議員は合併に消極的である。それぞれの部落が歩んできた歴史性、地域差が反映した。

市町村合併の問題は、その過程で差別事件が起きたというだけではない。市町村合併以前には、その自治体のなかで多数派を形成していたり(旧水本村)、部落だけで一町だったり(旧八坂町)、いずれにしても規模の小さい自治体のなかで部落の側が議員の多数を占めることが可能だった。しかし市町村合併を経るなかで、その自治体のなかで数の上で被差別部落は少数派となり、市会のなかで数名の議員しか選出できなくなることを意味し、この結果、部落の側の政治的な影響力が弱まっていく。しかし、これまで部落問題は限られた市町村だけの問題でありえたものが、部落を含む大規模な自治体が出現することによって、部落問題は多くの市民にとって避けられない問題として提起されていくことになる。部落問題の解決が、いわゆる「国民」的課題として意識されていく。

また部落の共同体としての結束、地域としてのまとまりは、合併した後も自治会(町会)などとして維持されていくが、合併以前に比べれば否応なしに弱まり、部落の独自の民俗や伝統、風俗や習慣、言葉や仕事も希薄になっていった。しかし、そうした地域の共同体の絆の弱まりのなかから、これまでにない解放運動の芽生えが生じてくるのも事実である。部落問題はそうしたなかで解決を模索されていくことになるという意味で、市町村合併はこれまで考えてきた以上に、部落史にとって大きな問題として考えられなければならない。

部落内外の文化の営み

分野別の構成のもう一つの特徴は、近年の「人権文化の創造」という問題意識を意識した「部落内外の文化の営み」である。

文化の定義は難しいが、人間の営みすべてを意味するとも言える。「部落解放は、文化の問題だ」と常日頃から言っていたのは、府同促協会長だった故寺本知さんだった。その意味では、解放運動を始め同和行政、解放教育から暮らしを支えた仕事、生きていることそのもの、つまりは本史料編に掲載した資料すべてが文化の営みと言えるが、ここでは特に、部落差別を克服するために部落の内外で取り組まれた積極的、意識的な取り組みを考える。

冒頭に年代不詳だが、部落史に関する大阪府がまとめた啓発文書を掲載した。この資料には日付がないが、文面から戦後初期のものと考えた。戦後初期の解放運動において、青年同盟が文化運動を重視したことは周知のことである。青年同盟が文化運動を重視したのは、部落を文化的に遅れた、低位な所と考えていたからであろう。青年たちは、部落には早婚が多く、しかもそれは良くないことで、差別をなくすためにも克服しようと自らも真剣に考えていた。

これと関連して、別の分野(「多様な運動の再出発」)には一九五五年度の大阪府連大会の討議資料を掲載している。その文化運動の方針には、文化運動とはなによりも部落にある文化や伝統を大事にすることだという認識が書かれている。こうした認識は、当時としては突出していたが、やがて現在のように、部落を誇り得る歴史をになっている地域と考え、独自の文化や文化運動を強調する流れへと発展していく萌芽であった。また戦前の水平運動の時期に全国で数多くの文芸雑誌が刊行されたように、戦後も地域に根ざして機関紙が発行されるのは、単に運動の組織化という意味だけではなく、そうした機関紙に思いをぶつけ、文章を書くことがある種の「癒し」であり、今日で言う自己表現あるいは自己実現の方法・手段であったと考える。

部落の外からも、差別をなくし、豊かな社会を築こうとする動き、文化的な取り組みも起きている。戦後繰返し、新劇が協同で島崎藤村の「破戒」を上演したことは有名だが、今回の史料編には、一九五八年の時のパンフレットを抜粋して掲載した。末尾に戦後の公演記録の一覧がある。栗須喜一郎が詩集に収めた「破戒の歌」を書いたのは、一九四八年の公演に際してだった。

また、糾弾闘争をきっかけにしたことではあったが、『朝日新聞』が一九五六年の人権週間に「部落・三百万人の訴え」を連載したのは有名な話である。ただ読者は大阪本社版を読む地域に限られていたと言われ、むしろ『週刊朝日』(一九五七年)の特集「部落を解放せよ」の方が影響力は大きかったとも言われる。

さらに、これまで知られていなかったが、一九五八年には岸和田高校の生徒が部落問題に取り組み、その経過を生徒会の新聞が記事にしている。翌五九年ころから大学生の部落問題研究会(部)の取り組みが活発になって部落の実態調査などに参加するようになる。NHKが当時ラジオで結婚差別をテーマとした劇を放送していたことも、あまり知られていない。

亀井文夫が映画「人間みな兄弟」を監督したことは、よく知られている。今日から見れば内容に問題があると指摘するのは易しいが、当時もっていたインパクトはかなり大きなものがあったことを、歴史的には正当に評価しておく必要があるだろう。

こうして考えると、部落差別をなくす部落内外での文化の取り組みにも、それなりに歴史があったように思う。はたして今日の教育・啓発、そして運動の取り組みがこれまでの経験をどう発展させているのか、一度じっくり考えてみるのも面白いのではないかと思う。(続)