調査研究

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大阪の部落史通信・17号(1999.3)
藤本清二郎
「近世おんぼう身分と村落―紀の川筋・泉南地域―」
(『部落問題研究』一四四輯)

森田康夫(樟蔭東女子短期大学)

一九九八年度の『部落問題研究』誌上には、標記藤本論文のほかに吉井克信「近世畿内三昧聖の宗教的側面と信仰」(『部落問題研究』一四四輯)、吉井敏幸「中世〜近世の三昧聖の組織と村落」(一四五輯)が発表され、いずれも三昧聖の中世から近世に通じる村落内での存在形態が考察されていた。本稿では大阪部落史研究との関連で『福原家文書』を分析された藤本論文について紹介するとともに若干の意見を述べてみたい。

「近世のおんぼう身分と村落」と題された藤本論文も紀の川筋と泉南地域を対象に、隠亡身分の居住地域と生活形態を、中世から近世への推移のなかで追究されていた。また泉南地域の中世来の三昧地一八カ所と新規の三昧地十カ所の計二八カ所の存在を図示され、史料的に見て近世初期の日根郡樫井村に「字ひじりかいと」が存在していたことや貝塚願泉寺でも「ひじり田」が記録されたことから、太閤検地の際に聖身分の集落のあったことを推測されている。隠亡身分の所持高は和泉国の慶長九年時の検地で、合計三百六十石二斗二升二合であったが、翌十年にはその役負担が免除されていた。

前近代社会において賤視と隣り合せの職能を担う人々が、強力な政治権力が出現した場合、まず生活手段として既得権確保のために組織的対応を図るのは当然であった。制度的賤民としてのかわたの場合でも、権力の側が従来の斃牛馬処理の慣行を追認することで役負担とし、身分を特定したところであった。

藤本論文の本稿前段の力点は「三昧」=聖=おんぼうとその名称は時期により変化するが「三昧と密接な関わりのある職業身分が中世期に形成されたと考えて大過ない」とされる点にあった。この点は吉井敏幸論文が大和国を例に立証された所でもあった。

また享保二年に欠落した、南郡堀新町の清七の帰参願いが享保一七年に家族から出されたとき、清七は紀州那賀郡杉原村隠亡与兵衛のところで百姓奉公していたという例などから、泉南郡域の隠亡の生活圏、婚姻圏が、紀の川筋右岸に及んでいたことを指摘されている。

次に隠亡身分と村落の関係として、まず村方から墓役への施与として麦秋・田秋の慣行のあること、さらに隠亡の墓役をめぐる隠亡内部の対立と村落との関係について紹介されていた。

文政五(一八二二)年、貝塚町に近い堀新町の隠亡杢兵衛から庄屋に提出された文書によると、堀新町の墓役はかっては三軒で勤めていた。しかし「御田地多作仕侯節凶作ニ而御年貢難出来、依之奉公ニ罷出御年貢上納仕リ」とあるように、宝暦年中から杢兵衛の親に変わり墓役は親戚の長兵衛に預けられることになった。そのため長兵衛家では月二十日の墓役を勤めることとなるが、その後、杢兵衛の代になって預けた分である十日分の返還を求めたが、長兵衛は応じてくれなかった。

この時、村方は杢兵衛の復帰を支持して藩主に訴訟した。その理由に、墓郷の「不幸之節ニは施主本より当番ヲ争ひ侯義御座侯」とあるように、村方では長兵衛家の葬送を巡る取扱いに不満があり、施主側が隠亡を選ぶなどの争いがあった。そのため杢兵衛の墓役復帰に墓郷の堀村はじめ七カ村の年寄・庄屋などの連署を得て訴訟のあったことが紹介されていた。

墓役人数を巡っては、地域人口に相応しい人数を必要とするものである。それが堀新町のように聖間の都合で墓役が集中した場合、近世も後半になると聖職も営利化するなかで競争原理が働かなくなり、人の不幸に付け込む専横があると、当然村方との対立を招き、聖職間の自律的な体制への村方の介入を許すことになったと言えよう。それは藤本氏が言われる「十九世紀における墓郷村民の逼迫とそれを背景とした彼らと墓役おんぼうとの矛盾の激化」と言うよりは、長兵衛に見られた不親切・「手落ち」・不幸にかこつけた高値の要求など、聖職の営利化と惰性化が生んだ聖職からの逸脱がその根底にあったのではなかろうか。そして隠亡への賤視は村方との対立と共に一層深まるという構図であった。