このところ久米邦武事件に関する史料を読み直していて感じたことについて書いてみたい。
いうまでもなく、久米邦武事件とは一八九一(明治二四)年に『史学会雑誌』に掲載された久米の論文「神道は祭天の古俗」をめぐる筆禍事件で、これを機に、久米が帝国大学教授を休職に追い込まれたところから、学問に対する国家の干渉を象徴する事件として知られている。しかも、問題が日本の古代史上の学説をめぐってのものであったところから、戦後に編纂された歴史学史の叙述においては必ず言及される重要事件となった。
ここでは、現在おこなわれている評価の仕方として代表的なもののひとつを掲げておこう。
本事件は、天皇制国家の学問の自由に対する象徴的な抑圧事件であり、これ以降、日本の歴史学は天皇制研究をタブーとし、研究と教育の分離を自明の前提とする道を歩むこととなる。(平凡社『日本史大事典』、宮地正人)
この宮地氏の評価は、その後の日本史学の歩んだ軌跡から考えた時、的を得たものということができる。しかし、他のすべての歴史的事象がそうであるように、この事件にもまた、別の見方ができるように思われる。
当時、帝国大学の編年史編纂掛を拠点に活動していた重野安繹、星野恒、久米邦武らは、歴史学を史実に基づいた実証的な学問として確立するために、世上に流布する様々な俗説を俎上にあげ、逐一その誤りをただしていくという過激な論陣を張っていた。そのため、日蓮の龍口法難、武蔵坊弁慶の活躍、楠木正成・正行桜井の別れなど伝説化した著名な出来事を次々に否定していったのである。これに対し、楠木正成のような天皇に対する忠臣の事績を否定することが神道家や国学者、さらには政府高官らの反発を高めていった。久米邦武の論文「神道は祭天の古俗」もそうした一連の研究のひとつとみなされ、神道家らの批判の標的にされたというのが久米邦武事件の背景であった。
「国家の大事を暴露するの者の不忠不義を論す」(『国光』)、「久米邦武氏の邪説を弁して世人の惑ひを解く」(『随在天神』)、「久米邦武氏は神宮を打破したり」(『国光』)など、当時久米批判をおこなった論説のタイトルを並べるだけで、当時の風潮をうかがうことができる。久米邦武、さらに重野安繹らは、こうした世論の盛り上がりの中で帝国大学を去り、ついには編年史編纂掛自体が廃止に追い込まれる。その意味では、「学問の自由」に対する抑圧事件であるとの宮地氏の評価は間違ってはいない。
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しかし、見逃してはならないのは、重野、久米らと久米批判者らとの立つ位置の違いである。よく知られているように、重野安繹は薩摩藩、久米邦武は佐賀藩出身の漢学者であり、ともに藩閥政治家を知己に持ち、それを背景にして学者として大成してきたという一面があった。しかも、藩閥政治家の多くが、幕末には尊王攘夷を唱えながら維新成就後はいち早く外国との交際を推進し、欧米の学術を取り入れていったのと同じように、重野、久米らも欧米流の実証主義史学を日本に取り入れるのに大きな役割を果たしたのである。
ところが、久米を批判した神道家や国学者は、藩閥政治家と同じように明治維新に貢献しながら、尊王攘夷の志を堅持し、あくまでも洋学との距離を保ち、維新後は不遇をかこつ人々ではなかっただろうか。この人々は、まさに歴史上において勧善懲悪を鮮明にし、生き方においても大義名分にこだわらざるをえない人々であった。こうした神道家、国学者の動きには、漢学者の中からも水戸学派や幕臣出身者などやはり同じように不遇を感じていた人々が同調した。久米批判者の多くが在野、民間の学者だったのである。
こうしてみると、久米邦武事件の構図を単純に<国家>対<学問の自由>であったと見ることはできない。むしろ、<藩閥>対<在野>、あるいは新たに形成されつつあった官学アカデミズムの権威性に対して、そこから排除されつつあった民間歴史学者の反撃と見ることもできるであろう。
もうひとつ重要な点は、久米批判者の多くが、その論文の学説としての当否よりも、社会教育上の問題点を指摘していることである。歴史学の本分は、些末な事実の詮索にあるのではなく、風俗道徳をただし教育に役立たねばならないのに、久米らの論は社会に混乱をもたらしているというのである。このような歴史教育論こそ、神道家や国学者の拠りどころであったといえよう。
久米邦武の論文を批判するために私宅まで押し掛けて問答をおこなったのは、九州中津出身の国学者渡辺重石丸の私塾道生館の門弟たちであった。この門弟たちの活動が最終的に久米の帝国大学罷免に結びついたことから、久米批判者のもっとも重要な一角を担ったということができる。そこで、彼らの師にあたる渡辺重石丸であるが、渡辺は平田派国学の信奉者として明治維新にも一定の役割を果たした後、維新政府に用いられ教部省などで神官や諸陵掛などに就いた人物であった。ところが、西南戦争の際に門弟の中から西郷隆盛軍に呼応したものが出たのをきっかけに野に下り、以後はもっぱら子弟の教育に力を入れてきたのである。その意味で、渡辺の生き方は幕末維新を通じて首尾一貫しており、藩閥政治家のような紆余曲折はない。門弟たちは、官学アカデミズムの担い手として、重野や久米らを不適格と見たのであり、むしろ渡辺のような世情におもねらない高潔な人格を求めたのではなかっただろうか。
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皮肉なことに渡辺の門弟らの動きは世情における国粋主義の台頭に合致して、久米らの失脚をもたらす。しかし、その代わりに久米らの後を継ぐのは神道家や国学者流の歴史学ではなく、まさに大学内部で完結したアカデミズムとしての歴史学であった。それ以後の歴史学は、これまで以上に歴史教育との関わりを回避しながら、学問の枠内にとじこもろうとしたといえるのではないだろうか。
そのようなアカデミズムを中心とする歴史学のあり方が本当に問題とされるのは、戦時中のごく一時期と一九七〇年代以降のことといっていいであろう。部落史は、とりわけそうした戦前・戦後の歴史学への問いかけの中から在野の学問として成長してきたといえるであろう。したがって、当然のことながら、部落史は歴史教育との関わりも密接であった。しかし、今再び部落史の分野において、歴史学と歴史教育との距離が大きくなりつつあるように感じられる。両者が対等の関係にあって相互に連携しあうことができなければ、部落史の存在意義自体が失われるように感じられるのだが。