一九一一(明治四四)年二月一一日(紀元節)、明治天皇は時の桂首相に対して勅語を出し、窮民に施薬救療することを宣し、その資として内帑金(一五〇万円)を支出するからよろしく措置せよと命じた。
勅語が「経済の状況漸に革り、人心動もすれば其の帰向を謬らむとす」と述べているのは、大逆事件にみられるような支配層の危機感を如実に語っているといってよい。
この勅語をうけて、桂首相は東京・大阪・名古屋・京都・神戸など大都市の富豪に呼びかけて、寄付を募った。そして集まった額は二千万円にも達したのである。大阪では三〇〇万円以上になった。以上の内帑金と醵金を元手にこの年八月に創立されたのが、恩賜財団済生会である。
済生会は各府県に支部を置き、知事が支部長となった。
ところで、済生会大阪支部長に就任予定であった大阪府知事高崎親章は『大阪毎日新聞』一九一一年五月二八日付の紙上で次のように語っている。
郡村地方の施療方法は「施療券の様なものを発行して、地方の病院や開業医に託するを一番得策だと思ふ」と述べた後、とくに部落に言及して先ず、「特殊部落の貧民に対しても勿論公平に行き渡らねばならぬが、兎角特殊部落と普通人民との間に何となく差等が築かれて、両者の関係が融和を欠いて居るのは嘆ずべき現象の一であるが、近来行政官が極力此障壁を撤去するに力を尽した結果、段々両者の接近を見る様になつたのは喜ばしい」という。
すなわち、済生会の救療の目的・対象として当初から部落民がはっきりと存在していたこと、また、この頃はじまった府県や内務省の部落調査や部落に対する施策が、実際はともかく、官憲の側ではある程度成功とみていたことを物語っている。
ついで高崎知事は「併し特殊部落の方でも因襲の久しき何となく僻根性を生じて、其行為も随分如何はしいのがある」と述べて、当時の官憲の部落観をあからさまに吐露したのち、「済生会は一視同仁の趣意に従ひ、彼等に対しても十分注意を払ひ、至尊(天皇―引用者)の思召を普及せしむるに力を尽さねばならぬ」と天皇の「思召」を持ち出して、その恩恵を強調している。
済生会の施薬救療事業は一九一二年五月からはじまった。それは官公立病院・赤十字病院、医師会・医師組合への委託と、大都市における済生会直営の診療所・巡回診察隊による救療事業に大別される。そして実際の救療は済生会所定の施療券を交付して行った(『大阪毎日新聞』一九一二年四月二四日付)。
ちなみに、大阪では一九一六年時点で、今宮、西浜、九条、西野田、本庄の五ヵ所の診療所が設けられていた。その中で西浜診療所と本庄診療所はいずれも一九一四年に開所した。西浜診療所は女医一名・調剤員一名・看護婦等四名で、開所の一九一四年六月から一九一六年末までの一年半に診療患者は八二五三名であったという(大阪府『大阪慈善事業乃栞 全』一九一七年)。