二年がかりで「大坂渡辺村の空間構成」(『部落解放研究』一一八・一二四)をまとめた。おおまかな見取り図を描いたあと、いよいよ六つのチョウで構成されるその個別の町に立ち入って論じようとしたが、ぶざまな話ながら二町に触れただけで編集者堪忍袋爆発寸前と相成った。ほとぼりもさめた頃なので、河岸を変えて性懲りもなく続きを書く。気分転換を期に、ここで論じる史料が天保期なので空間構成論からも少し離れて個別マチの探険としたい。
(一)
分析の中心になるのは九四年に吉田徳夫によって紹介された(表1の注1参照)渡辺村の新史料天保五年『米一件町内取締書』である。渡辺村が作成した原文書の発見として盛田以来久々に貴重史料が世に出た感がある。すでに紹介者の吉田による解説のほか塚田孝『近世の都市社会史』(一九九六)の詳細な分析があるが、どちらにも誤りが少なくない。
表1 渡辺村新屋敷町住民構成
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家持ち |
家主?? |
家主?? |
1 |
出雲屋太郎兵衛 |
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2 |
池田屋ゆり(1) |
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3 |
池田屋次右衛門 |
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4 |
吹田屋麻次郎 |
借家5 |
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5 |
京屋さよ(2) |
借家10・6 |
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6 |
大和屋みち(3) |
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大和屋佐兵衛2 |
7 |
岸辺屋佐兵衛 |
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8 |
池田屋藤五郎 |
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9 |
池田屋ゆり(4) |
借家1 |
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10 |
岸辺屋いそ(5) |
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岸辺屋六兵衛9・14 |
11 |
岸辺屋重兵衛 |
借家18 |
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12 |
岸辺屋重吉 |
借家12 |
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13 |
池田屋助太郎 |
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14 |
池田屋大吉 |
借家6 |
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15 |
池田屋佐兵衛 |
借家1 |
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16 |
京屋弥兵衛 |
借家6(??を参照) |
京屋弥兵衛5・5 |
17 |
池田屋清兵衛 |
借家4 |
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池田屋市三郎6 |
太鼓屋要蔵22・14 |
大和屋弥吉7 |
河内屋しち(6)10 |
岸辺屋吉右衛門6 |
池田屋しむ(7)10 |
岸辺屋宇之吉11 |
播磨屋五兵衛15 |
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岸辺屋辰次郎9 |
岸辺屋山三郎(8)8 |
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年寄2ー持主15 |
家主13ー借家99 |
家主9ー借家123 |
注1 典拠『米一件 町内取締書』(関西大学総合図書館蔵)以下は吉田徳夫「摂津役人村関係史料の紹介」(関大『人権問題研究室紀要』29 94・4)翻刻による
2 (1)〜(8)は「池田屋ゆり代判岸辺屋吉兵衛」などとあるもの、小文字名を持主とした
3 家主úJとは「池田屋佐兵衛借家」とあるもの、家主úKは「大和屋要蔵支配借家」とあるもの、úJは多く家持ちと重なるので並べ、それ以外は署名順にならべた。úKについても代判人はその並びとし、他は同様署名順。したがって家持・家主がúJでありながら代判人によってúK区分となっているものは注2に従い区分úJとした
4 借家(人)数に・があるものは別々に書き上げられているもの
* 八軒町住人[奥‡D]
** 代判人六兵衛弟 同居ののち天保9北之町住民、同年南王子五兵衛を雪踏花緒代銀滞リ出入[奥‡D]
嘉永5年4月病死倅六兵衛相続[市史B]
米一件は大坂市中米価高騰時、村ごとに割当米量が決められるに際して当初月一五〇石と通知されたが、渡辺村は大人口を理由に増米を嘆願し、それを認められたのち作成された取締書である。吉田・塚田は指摘していないが本件は大塩の乱にも関係が深いのだが、当面の関心はこの取締書が渡辺村のどの町のものであり、その町の人的構成の分析にある。したがって以下では専ら署名部分の分析をおこなう。限られた紙面ゆえ四つの表に分析結果を凝縮させた。
請書きは次のような記載で続いている。
出雲屋太郎兵衛印??? a(一五名略)
池田屋清兵衛印
太鼓屋要蔵支配借家??? b'
八尾屋次兵衛印??????? c(二〇名略)
中嶋屋佐吉印??????? (二名略)
池田屋佐兵衛借家??? b
池田屋清次郎印
(以下省略)
署名は大きく二つに分けられる。前半は屋号人名が一七人連署され(a部分)、続いて借家持主(b+b'部分家主という)ごとに借家人(c部分)が署名する。この構成から前半がその町の家持ち層(町人)であると推定される。借家人数の多さと捺印から一町構成員全員(世帯主)の判明する、これは管見上唯一の史料なのである。
(二)
したがって一七名(同一人があるので一六人)の居住町を確定できれば、本史料がどの町のものであるかを知ることができる。しかし塚田らの誤りは池田屋ゆりがなぜ二度も署名しているかを考えてみることがなかったことから始まっている。
署名は表1の順に並んでいる。2と9池田屋ゆりは代判人も含めまったくの同一人である。冒頭の1出雲屋太郎兵衛は新屋敷町年寄であった太右衛門、その子で寛政ー文化期福岡藩革座に莫大な貸銀をしていた六右衛門の直系であろう。六右衛門も北之町・新屋敷町両方を兼帯する年寄であった。次に署名した池田屋ゆりが9番目に再び署名している理由を合理的に説明しようとすれば、太郎兵衛とゆりが特定の町の年寄あるいは代表者であり、2は役人として9は家持ちとして署名した、という以外にない。女性年寄は認められなかったであろうから代判人を立てての町の代表者としておく。だがそうだとすれば実は若干の困難が行く手に立ちはだかる。すなわち第一に町年寄でありながらその町に家をもたない(つまり住人ではない、しかも太郎兵衛の場合は貸家さえない)ことが許されるか、第二に村内二人年寄制は天明五年より各町一人年寄制に移行した際なくなったのではなかったか等である。
煩瑣な論証は後日にまわして省略するが、二つとも矛盾しないだろう。事例の紹介にとどまるが、まず先に出雲屋六右衛門は北之町の年寄を兼帯したと述べたが、それは北之町からすれば不在の年寄になること、先稿で町年寄と村年寄を区別すべきことを指摘したがそれは基本的には天明後も続いたと考えられる。
この町の町人(家持ち)は一五人と確定された。では彼ら家持ちは渡辺村のどの町の住人であろうか。出雲屋が代々新屋敷町の年寄であったことと表3のデータからこの貴重な史料が新屋敷町で作成されたことが明らかになる。
(三)
署名の後半は家主とそれに続いてその貸家の借家人の署名が繰り返される。家主に注目するとそこに二種類の記載があるのがわかる。一つは「池田屋佐兵衛借家」(b)であり、もう一つは「太鼓屋要蔵支配借家」(b')とある記載である。表1では前者を家主úJ後者を家主úKと区別した。この区分はなにを意味しているのであろうか。
家主úJ中九人は家持ちと重なる。池田屋市三郎以下残る四人のうち岸辺屋吉右衛門は表4に示したが新屋敷町住人である。つまり家主úJとは新屋敷町に住む者を示す(ただの京屋弥兵衛は明らかにこの町の家持ちなのに三カ所の掛屋敷中二カ所が区分úKとなっている)。
そうなると家主úKは新屋敷町に住んでいない者であることが予想される。家持ちとは一人も重ならないし、判明する限り岸辺屋六兵衛(八軒町)播磨屋五兵衛(播五・北之町)岸辺屋山三郎(八軒町↓北之町)らは他町住人である(ここでも大和屋佐兵衛のみ当町借家に居住しながらúK区分になっている)。通常家主が同一町内に居住しない場合は家守を置く。家守とは家持主が同一町に居住しない場合に置くことが義務づけられ当町借家人のうちから頼まれた借家管理人である。
家賃を徴収するのみならず持主に代わって公務・町用を勤める。ところが渡辺村ではそうではなく北之町に住む大富豪の播五が新屋敷町の家守として現われるように、他町にあっても家主が家守(借家管理人)となっているのである。大坂三郷のあり方とは大きく違っていた。それがそうなったについては「其方共ハ村切の事」(『摂津役人村文書』盛田嘉徳編一八七頁)つまり町でなく村との奉行所判断のあったこと、六町中四町が無年貢地(新屋敷町は年貢地)であること、居付家主の借家占有率が四五%と高いためと思われる。
さて以上の考察によって新屋敷町は家持ち一五、借家を持つ家主二一、借家人二二一(家守で借家人である大和屋佐兵衛を除く)、借家のまとまり(長屋)ごとに家主署名がなされているあり方から二六の町屋敷から成っていた。厳密には借家人一人の場合は同居も考えられるので屋敷数は若干減るだろう。新屋敷町は借家の比率が九四%にものぼり、二四一世帯[二二一(借家人)+一五(家持ち)+四(家主úJの一五から家持ち九をひく)+一(大和屋佐兵衛)]が住み家族も入れれば千人内外の人口を擁したのである。