調査研究

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大阪の部落史通信・18号(1999.6)
大阪六ヶ所墓所聖の再生産と浄土宗寺院

木下光生(大阪大学大学院)

 本報告は、大坂六ヶ所墓所聖の再生産のありようを、特に浄土宗寺院との社会的諸関係の形態から分析し、それを通して、大坂六ヶ所墓所聖が都市大坂において固有の身分として存立していた構造の一端を考察するものである。

 これまでの近世墓所聖研究は、墓所聖と東大寺龍松院・村落共同体との関係や、彼らに対する差別のありよう等、様々な点を明らかにしてきたが、同時に以下の二点において方法論上の問題を抱えてきた。

 第一は、墓所聖を葬送・死体処理に関わる身分と捉えておきながら、葬送・死体処理の実態
そのものから墓所聖を分析してこなかった点である。これについては、拙稿「近世大坂における墓所聖と葬送・諸死体処理」(『日本史研究』四三五、一九九八年一一月)で一定の課題克服を試みた。

 第二は、様々な地域の事例の寄せ集めによって墓所聖の実態を示そうとしてきた問題である。この問題は、史料的制限の点や墓所聖研究そのものの蓄積の薄さを鑑みれば、一つの研究段階としてやむを得ないものでもあった。しかしながら、墓所聖が生活する個々の地域の特質が同質ではない以上、墓所聖の社会的位置づけに肉迫するには、一定の地域を設定し、当該地域における墓所聖の仲間内部の構造や、彼らを取り囲む様々な社会的諸関係の実態を追究する必要性があると言える。

 本報告では、こうした研究史上の課題を克服するため、都市大坂という一定地域の墓所聖を対象として、彼らの再生産のありよう(当主輩出・墓所管理・個別坊経営・墓所内宗教行事執行)を、特に浄土宗寺院との関係に留意しつつ分析し、そこから都市大坂において墓所聖が一つの固有の身分として存立していた構造に迫りたい。

 第一に、当主輩出と浄土宗寺院の関係について。大坂の六ヶ所墓所聖は、各墓所内に一つまたは複数の坊舎を構え、坊ごとに家督相続を行っていた。家督相続にあたって、相続人は剃髪・改名して先代と師弟関係を結び、僧体となる慣習であった。またその際、相続人の親戚筋にあたる「一家」の承認のみならず、各墓所内の墓所聖仲間(道頓堀墓所聖であれば六坊仲間)の承認も必要となり、支配村庄屋への「御目見」も済まさねばならなかった。僧体となって家督を相続した各坊の墓所聖当主は、葬送の面において火葬の監督や内見を執行し、仲間内部における惣代・月行司の役割を担って、大坂町奉行所・領主役所への出頭、各種文書への署名を執り行っており、「聖役」「表用仲間勤方」「御公用向」の遂行者として位置づけられていた。

 このように、墓所聖の体現者であった当主を輩出するにあたって重要な位置を占めていたのが浄土宗寺院であった。

 例えば小橋墓所聖の場合、家督相続に際して相続人が知恩寺末大應寺(小橋寺町)で剃髪得度を行っており、道頓堀墓所では、家督を譲った被相続人が、師弟関係にあった知恩院末良運院(西寺町)のもとへ隠居に行っているほか、知恩院末栄松院(八丁目中寺町)から養子を貰い受けている。当主が幼年であった場合の後見人・代判人としても浄土僧は関与しており、知恩院末実相寺(八丁目寺町)檀那(のち知恩院末源聖寺〔西寺町〕檀那)で長町に借屋住まいしていた僧が、若年の道頓堀墓所聖当主の「介添」を任されていた事例が確認できる。また道頓堀墓所聖の場合、檀那寺を源聖寺としており、法衣許可も源聖寺からうけていた。

 右のような事例から、大坂においては、墓所聖が当主を輩出しようとする際、浄土宗寺院が不可欠の存在となっていたことが窺える。当主が僧体であるという墓所聖の身分的特質に規定された社会的関係であったとも言えよう。

 第二に、墓所管理と浄土宗寺院の関係について。都市大坂と隣接することによって、大量の死体数を火葬することとなった墓所聖にとって問題となったのが、大量に排出される灰の処分の問題であった。中でも死体が集中した道頓堀墓所では、一七世紀末に既にそれが問題視されており、各町や個別町人と合わせて、諸寺院からの入用銀寄進によって鳶田墓所への灰の移動が実施された。その諸寺院からの寄進の中には、浄土宗寺院からの寄進も含まれており、「法善寺(知恩院末、西成郡難波村)寺中」といった個別浄土宗寺院からの寄進のほか、「八丁目知恩院門中」「浄土宗黒谷金戒光明寺派大坂天満両所門中」というように、本末関係別・地域別に一括された形でも寄進を受けている。死体数の多さ=灰の多さという点と、墓所と町家の隣接という点が合わさって、大量の灰の処分が問題視されるという都市大坂特有の問題に対して、寄進という形で浄土宗寺院が重要な位置を占めていたと言えよう。

 墓所管理の面で、灰捨と並んで墓所聖にとって問題となったのが、墓所内諸堂の修復の点であった。墓所聖は、一七世紀末から幕末にかけて、絶えず諸堂の修復を行ってきており、それを支える資金源の一つが、浄土宗寺院からの名目金であった。例えば道頓堀墓所聖の場合、明和年間に檀那寺の源聖寺のみならず、源聖寺を取次として知恩院末法祐寺(西成郡西高津村)・金戒光明寺末光善寺(生玉寺町)からも名目金を借り入れており、諸堂修復の入用銀にあてている。火災等の災害的理由と合わせ、都市大坂への隣接を背景とした、葬送・墓所内宗教行事での頻繁な諸堂利用により、慢性的な諸堂「大破」に悩まされた墓所聖にとって、浄土宗寺院との関係は、諸堂修復を実現する上で不可欠な社会的関係であったわけである。

 第三に、個別坊経営と浄土宗寺院の関係について。墓所聖は、前述の諸堂修復における浄土宗寺院からの名目金借り入れのごとく、仲間全体として借金するとともに、墓所聖個人としても浄土宗寺院から名目金の貸付をうけていた。

 例えば道頓堀墓所聖の場合、一八世紀後半の段階で、先述の源聖寺・法祐寺・栄松院・大應寺、及び知恩院末天性寺(八丁目寺町)・同洞泉寺(八丁目東寺町)・同月光寺(東成郡天王寺村)・金戒光明寺末九應寺(生玉寺町)から名目金を借りており、各坊の存続資金にあてている。

 ただし、同時に返金滞納出入も惹起しており、一八世紀後半〜一九世紀初頭には、天性寺や金戒光明寺末大福寺(八丁目寺町)から返金要求の訴えを起こされている。

 第四に、墓所内宗教行事執行と浄土宗寺院の関係について。墓所聖は、各々の墓所において各種宗教行事を行っており、その際浄土宗寺院も密接な関わりを見せていた。道頓堀墓所聖の場合、諸堂修復の供養とともに、行基・聖武天皇の千百回忌の法要においても浄土宗寺院に参加を依頼しており、墓所聖の由緒に関わる宗教行事に浄土宗寺院が重要な役割を果たしていた様子が窺える。

 以上述べてきたように、大坂の六ヶ所墓所聖は浄土宗寺院と非常に密接な関係を結んでおり、しかもそれは、当主輩出の面で端的に表れたごとく、墓所聖がまさに「墓所聖」として存立していく上で必要不可欠な社会的関係であったのである。従来、こうした関係は身分間「交流」として評価されてきたが、この「交流」が身分制を維持する働きも見逃してはならないであろう。

(本報告は、一九九九年度大阪歴史学会大会での大会報告に向けてのものである。報告内容については、二○○○年初頭に刊行予定の『ヒストリア』大会特集号を参照されたい。)