藤本清二郎氏の『和泉国かわた村支配文書』上巻(以下、『支配文書』と称する)が、今年の二月に刊行された。
大阪の部落史関係史料集では、『奥田家文書』に次ぎ、『河内国更池村文書』を凌駕する、超弩級の大ホームランだ。二〇世紀中での″近世大阪の部落史研究″は、この史料集の刊行をもって締めくくりとなりそうだ。ちなみに『支配文書』の下巻は、二〇〇〇年四月に刊行が予定されている。
この『支配文書』に掲載されている史料群は、和泉国南郡福田村の福原家文書に収められている島村関係の文書である。藤本氏が監修し、貝塚市教育委員会が編集・発行した『和泉国南郡福田村福原家文書目録』(一九九三年三月、以下『文書目録』と称す)には、島村関係の史料目録が、文書番号七四四四から九二八三まで、一八四〇点掲載されている(未整理分を含め、二一一三点という)。
この内一四四点は、藤本氏が一九九五年三月に自費出版した『近世かわた村支配の政治形態』ですでに紹介されているが、今回の『支配文書』においては、「内容上の重複、紙数の制約により、一部を省いた」というものの、「全点の翻刻、掲載をめざした」と述べておられるように、その全貌がほぼ完璧に近い形で紹介されるようだ。ちなみに上巻には、その内の七八一点が掲載されている。
ほぼ二年置きに発表されてきた藤本氏の研究は、その度ごとにかならず前の仕事を越え、私たちをより高い地平へと導いてくれる。『近世賤民制と地域社会』(清文堂一九九七年二月刊行、以下『地域社会』と称す)は、『近世かわた村支配の政治形態』を越え、今回の『支配文書』は、『文献目録』からはじまった一連の研究を越えている。
例を挙げるならば、藤本氏は、今回の史料の翻刻に際し、『文書目録』をさらに正確に修正している。
たとえば、『支配文書』二三頁に収録されている史料は、文書番号では七五五三↓七五五八↓七五五四↓七五五五の順に並べられており、七五五八が間に挿入されている。この七五五八は、『文書目録』では「乍恐書付を以奉御断申上候」とあり、年不詳で「申(宝暦頃)」とされていた。しかし、今回の『支配文書』では宝暦二(一七五二)年と特定され、七五五三の後に組み込まれている。その理由は、おそらく次のような分析に拠ったものと推定される。
この史料(文書番号七五五八)に登場する「皮田嶋村庄屋藤右衛門」は、延享二(一七四五)年に″年寄役″となり(文書番号七五五三)、その後″庄屋役″になったらしく、宝暦七(一七五七)年に″庄屋役″を退任している(文書番号七五五六)。
つまり、「皮田嶋村庄屋藤右衛門」は、延享二(一七四五)年から宝暦七(一七五七)年までの間ということになる。そして、この間の「申」年は、宝暦二(一七五二)年しかない。
こうして、史料の年代が特定され、今回の『支配文書』では、文書番号の順序が入れ替わることになったのである。
『支配文書』に収録された史料を一点一点見ていくと、内容のおもしろさはいうまでもないことだが、史料分析のおもしろさも随所にあふれ、本当に興味が尽きない。歴史学の基本に忠実な研究手法は、読んで考えて、なおかつ飽きが来ない。いやはや、こんなことを書いていると、あっという間に紙数が尽きてしまう。
この『支配文書』は、藤本氏が先に発表された『地域社会』と、併せて活用すべきものだろう。後者は、前者のくわしい解説書としての性格を持っているし、前者には、後者の論が導き出される根拠となった史料が網羅されている。
たとえば、『支配文書』四九九頁以降に、牛肉販売についての史料が収録されている。点数は四点と少ないが、「かわた村」の生業の一つを示すものとして興味深い。
その一つ、明和二(一七六五)年一二月の史料では、嶋村庄屋藤九郎が福田村の庄屋孫左衛門から、牛肉一貫目の代金として銀四一匁七分一厘を受け取っている。これは、孫左衛門個人が、藤九郎個人に代金を支払ったということではなさそうで、藤本氏も『地域社会』の三二七頁で「孫左衛門は肉供給の取次者、窓口の役であったことがことがわかる」と分析している。
このように、『地域社会』と『支配文書』は相互に補完し合っている。″併せて活用すべし″というわけである。
ともかく、来年四月に予定されている下巻の刊行が、今から待ちきれない。