二〇世紀初頭の全国の小学校就学率は九〇%を超えていた。しかしこれには府県によって高低の差があった。
『大阪毎日新聞』は、一九一〇(明治四三)年八月一日号で、その冒頭に「大阪の学事不振」と題する論説を掲げ、大阪府の就学率が男女平均で九五・二一%と全国四七道府県中四五位の悪い成績であると指摘した上で、「是にて如何にして帝国第二の大都市などゝ誇揚し得べきや。大阪、殊に市の小学校は其の輪奐の美において全国に敵なかるべし、而して其内容の憐むべき此の如し」と述べて、「遺憾なく大阪式を発揮せりといふべし」と、大阪の精神的貧しさのあらわれだと皮肉っている。
このように大阪の教育の不振がいわれていた一九〇一(明治四四)年、大阪難波警察署管内に、私立有隣尋常小学校(南区木津北島町四四番地)と私立徳風尋常小学校(南区東関屋町)という二つの貧民学校が相次いで設立された。両校とも昼間働いている児童が多いため夜間二時間の授業を行い、修業年限は六年であった。
『大阪毎日新聞』によれば、両校の設立に至ったいきさつは次のようなものであった。新たに赴任してきた天野難波警察署長が所轄部内の失業貧民救済の計画の一つとして、貧民児童のための教育施設の設立を思い立ち、部内の富豪である新田帯革製造所社主新田長二郎および久保田鉄工所社主久保田権四郎を説いて、それぞれを設立者とする有隣小学校と徳風小学校を創立した。校名は『論語』の「徳不孤必有隣」からとったという(明治四四年六月八日付)。
ところで、有隣小学校は部落の子どもたちを対象として開校された。
同校の校長には多年貧民教育に携ってきた難波第六尋常高等小学校長が就き、教員には難波警察署の巡査とその夫人の中から小学校教員の経験のある者を充てた。これらの人びとは喜んでこれに応じたという。また、寄贈品も多く寄せられ、児童の散髪・入浴を一手に引き受ける業者もあらわれた(同紙、明治四四年六月八日付)。
開校日の六月五日、難波警察署は「貧児四五十名を集めたるに、いづれも鼠の巣のやうな頭をなし、腰帯さへも締めぬがあり」、「天野署長は羽織袴にて立出で、一場の訓示を述べたるに、貧児の親どもは難有涙に暮て、南無阿弥陀仏と唱へるもあり。いと、満足の体なりき」といわれた。なお、同校児童の制服は、女子は白の小倉女工服、男子はカーキー色の洋服であった(同上)。
この年一一月六日に新任の犬塚大阪府知事の両校視察があった。その時の情景を新聞は次のように伝えている。「知事さんといふ名さへ未だ聞いた事の無ひ子供等なれば、「これが大阪府の知事さんだ」と教師に教えられて、今更の如くかしこまつて両手を膝に置くもあれば、涕を啜つて取つて置きの顔をするものもあり。「お前達は何をしに学校へ来て居るか」と知事より尋ねられて、「豪い人になるのや」と遽に威張つて見せるなど、頗る邪気なし」と(同紙、明治四四年一一月七日付)。