古代部会の委員として「大阪の部落史」の調査・研究に参加いただいていた久保和士さんが亡くなった。連絡を聞いたとき、その予想外の訃報に思わず絶句した。私よりはるかに身体も大きく頑丈だったし、何よりも年齢が死とはおよそ無関係に若かったから、信じることができなかった。
勤め先を同じくされた積山洋さんの紹介でご参加いただいて以後、開催した研究会ののちに久保さんとも一緒に飲み、メンバーが四人と少人数であったことも幸いして、語り合う機会をしばしば持つことができた。豊かな歴史に恵まれた河内飛鳥の南河内郡太子町で生まれ、今もそこにお住まいのこと名古屋大学で考古学を学ばれ、修士課程を終えられたのち大阪市文化財協会に就職されたなどのことをお聞きした。動物考古学というほとんど未開拓の分野に取り組まれて多くの調査に従事され、報告書などにその研究成果をたくさん発表されているが、いくつか読ませていただいたその分析は、対象に迫る方法の鋭利さ、得られた結論の正確さ、論文の構成力と表現力、何をとっても非の打ち所はなかった。いつの時だったか馬のことに話題が及び、今から思えば失礼なことを聞いたのだが、柳田国男『山島民譚集』の「河童駒引」と石田英一郎『河童駒引考』を見ましたかと尋ねたら即座に読みましたと答えが返り、驚いた。″最近の若い″人たちはこうした異分野の成果の吸収に得意でないが、久保さんは考古学以外の文献にも実に幅広く目を通していて、その該博な知識は話していて楽しかった。酒を飲んでも騒ぐというタイプではなかったが、静かに杯を傾け、訥々と語るその姿は研究者として絵になってもいた。私とは文字どおりに親子ほど年が離れていたが、いずれその能力が全面的に開花することを確信し、期待していたがそれがかなわなくなってしまった。
通夜の席では、苛立たしさを禁じ得なかった。一九六五年生まれで三四歳、若すぎる死といえばそれまでだが、彼の持っていた能力を考えれば口惜しい。久しぶりに「不条理」という言葉を思い出したが、この不条理を解消するためには残された私たちが久保さんの業績を発展させていくほかない。
今回の「大阪部落史」古代部会の大きな眼目は、考古学の成果をおそらくは史上初めて吸収しようということであった。「大阪の骨細工職人」(『続・部落史の再発見』一九九九年部落解放・人権研究所)の中で久保さん自身の熱い意欲が述べられているが、その試みが成功するかどうかはひたすら彼の力に負うところが大きかったのであり、久保和士さんの死は本当に無念である。謹んで心から哀悼の意を表したい。