調査研究

各種部会・研究会の活動内容や部落問題・人権問題に関する最新の調査データ、研究論文などを紹介します。

Home > 調査・研究 > 大阪の部落史委員会 > 各号
前に戻る
大阪の部落史通信・19号(1999.10)
近代部落の宗教と生活

藤本 信隆(奈良県部落解放研究所研究員)


 本稿は大阪の部落史委員会・近代部会(第十八回)の報告要旨である。 大阪の被差別部落(以下、部落)で、このテーマを考える場合、やはり、賤民解放令を境として前近代から継続しているものと、近代国家成立以後の新しいものとの関係がポイントとなる。

 まず、前提としての近世の状況を、大和の部落を例に挙げて(拙稿「近世大和の部落と真宗−信仰の状況と差別の諸相−」仲尾俊博先生古稀記念『仏教と社会』所収、永田文昌堂、一九九〇年)、今日に継続する面を中心にみてみる。

 大阪を構成する摂津・河内・和泉に大和と山城を加えた、近世畿内五か国の部落は、経済力があり、単位あたりの人口が多かった。それゆえ、ほとんどが本願寺派(西本願寺)の総道場を、自らの手で建立し、厳しい負担に耐えて寺号を獲得し、寺院へと昇格させていった。宗教面における大阪の実態は、大和と共通しているので、具体的に動向をみてみる。

 本願寺派教団は幕藩体制の身分制度に準じて、寺院・僧侶の序列を「僧階」として細分化した。特に、部落の寺院・僧侶を「穢寺」・「穢僧」と呼び、五割増の負担を強いた。しかし、教団内外の厳しい差別にもかかわらず大和の部落は強い経済力を背景に、もちろん楽にではないが、実体としての寺院をもち、盛んな活動を行っていた。

 昨年、蓮如の五百回忌法要が東西両本願寺であったが、このような親鸞や蓮如の大法要が五十回忌ごとにめぐってくる。大和の部落の寺院でも、幕末には二回、盛大に行われた。また、その際には、寺院も整備され、村を挙げての行事となった。

 当時、浄土真宗(以下、真宗)は、部落に生まれたのは、その人の前世(宿)の行為(業)が悪かったからであり、現世はあきらめて来世を願えという「宿業論」を説いていた。また、社会生活は世俗の考え方(俗諦=王法)に従い、信心(真諦=仏法)は内心に留め、死後の浄土往生が肝心であるという「真俗二諦」を説いていた。これも信心から差別を見抜くことを妨げる教義であった。

 従来から、真宗が差別の苦しみに耐え忍ばせる役割を果たして来たと批判されるのはこの点である。当然そのような面があり、現に、今もこの点について、部落の人たちから教団の責任を問われている。しかし、大和の例でみたように、現実の生活は、毎年の「報恩講」(親鸞の命日法要)、大法要などの真宗行事を中心に、力強く、積極的になされていた。しかも、上昇志向が強く感じられる。

 差別の現実は部落外との交流に端的に現れる。大和の部落でも、日常生活では近隣の村落と多少の交流があったようだが、部落外の真宗寺院や門徒との交流はほとんどなかった。しかし、全く閉鎖的であったのではない。

 真宗行事での、人的、経済的協力関係をみると、大和の近隣の部落はもちろん、畿内各地の部落の寺院や門徒にまであり、驚くほど広範囲である。部落外真宗の寺院や門徒との交流がスムーズでないという問題は、今日まで継続され完全に解決されていない。


 明治維新以後の部落の生活をみると、原因は省略するが、近畿の部落でも、経済力の低下、貧困化が大問題となる。それが宗教面に及ぼした点を考える必要がある。

 教団は「穢寺」・「穢僧」扱いを廃止し、寺院・僧侶の格を「堂班制」として再編した。「堂班」とは本願寺での法要の席次で、本願寺派では衣と袈裟の色で区別され、全ての寺院・僧侶が格付けされた。これによって部落の寺院・僧侶にも上昇の機会が与えられた。近畿の部落の多くは、近代以前に寺院の形態を整えていたので、そのことは部落の人たちの上昇志向を満たし、熱い思いの証となるものとして受け入れられた。

 特に、二十世紀初頭の二十年間は、教団挙げて協力した日清・日露戦争、蓮如・親鸞の大法要、大谷光瑞問題といわれる教団財政の危機などがあり、募財が相次いだ。上昇はそれらに応えることで可能となるが、当然、部落の経済を圧迫した。

 この時期の大和同志会や、それに続く全国水平社が「堂班制」を批判したのは実にこのギャップであった。しかし、苦しい中、日々の生活を差し置いてでもという、近世以来の宗教優先の心情を、近代合理主義の洗礼を受けたかれらは過小評価した。

 一方で、全国水平社の西光万吉などの批判が、中世被差別民を「同朋」とし、共に生きた親鸞像を示し、その平等な人間観を訴えてなされた面があることは大きな意義があった。部落が真宗を受容した原点を示し、近世以来の教義と親鸞の本来の教義との相違を知らしたからである。ただ、大勢には影響しなかった。

 さて、近代の新たな状況は神道・神社との関わりである。幕末の国学者平田篤胤は、部落は「神国」日本にあってはならず、それを受容する真宗は「神敵」であると主張した。

 しかし、阿弥陀仏のみを信じ「神祇不拝」を伝統とする真宗側には排除されているという意識はもちにくかったといえる。部落においても状況は同じであった。ところが、明治維新直後の、神道国教化政策で有無を言わせず結びつけられた。

 一八七一年、寺院の「宗門改制」が廃止され、その役割を神社にさす「氏子調制」が強引に導入された。神社と縁の薄かった部落の人もすべて、近くの神社の氏子となり、守札をもたされた。しかし、歴史的背景を無視した非現実的な政策は、わずか二年足らずで廃止された。

 このことは、部落の宗教生活の中で神道・神社が意識される契機となった。また、神社における権利の平等を意識させ、排除を差別ととらえるようになった。だから、祭礼参加などの運動は、解放への闘いと高く評価される。

 ただ、神道の部落排除の本質がケガレ意識であることを批判しないで、神道を容認していくことは、その中での人間の尊厳獲得が困難となってくることも事実である。 とはいえ、教団もその後の、神社は「敬神崇祖」のためにあり、「非宗教」で全ての宗教の上に立つという、国家神道体制の論理を、先の「真俗二諦」説により受け入れる。

 部落の宗教生活に、「神祇不拝」の性格をもつ真宗と、賤民解放令をだした「現人神」たる天皇に対する崇拝とそれに連なる神社参拝を両立させる道をひらいたのである。

 また、明治維新以後のもうひとつの新しい状況は、諸宗教との出会いである。主体的に宗教が選択できる、近代以降の「信教の自由」が部落にどのような影響を与えたかである。結論的にいえば、今日に至るまで、キリスト教や新宗教などの諸宗教は部落内ではごく少数派であり、真宗支配を覆すに至っていない。大きな変化は何ら見られないのである。紙数の関係で指摘のみにとどめておく。