はじめに
このたび本委員会の調査活動の中で、近世堺の郷方役人の一つである垣外の宗門改帳の存在を知るところとなったので、ここに紹介したい。それは文久元年(一八六一)一〇月付「南北垣外宗旨手形人別帳」及び文久元年(一八六一)一〇月付「堺南北垣外宗旨御改帳」(ともに個人蔵)である。後述するように両文書は、堺の惣会所文書の一部と考えられる。垣外の宗門改帳は、これまで『堺市史』及び「堺市史史料」にも収録されていない。
一 近世堺の郷方役人
中世末期の堺は、南北二つの荘園(南庄・北庄)に分かれていた。江戸時代初期には、四つの行政区域−四辻(南本郷・南端郷・北本郷・北端郷)に分かれていたが、元禄六年(一六九三)端郷の呼称を止め、大小路を境として南北両郷に復し、町役人勤方、町入費の負担、町役の勤務等すべて両郷等分することとなる。南北両郷は、普通南組、北組と称していた(『堺市史』第三巻本編第三)。 南北両郷には郷方役人が置かれていた。惣年寄、惣代、職事、垣外、惣会所守である。郷を代表する惣年寄は世襲であった。惣代、職事及び「其余郷役人共」については、惣年寄が人柄を吟味して召抱えた。また、惣代以下の者を相手取る出入筋は、奉行所より惣年寄へ下げられることになっていた(「惣年寄勤書」)。つまり、惣年寄のもとで裁判もしくは内済が行われたことになる。惣代及び職事(いずれも南北各組三名)は、惣年寄の補佐で、郷屋敷に住み、郷入費から扶持銀を支給されて、交替で奉行所と惣会所に勤めた。
各郷の惣年寄、惣代、職事等に対して、各町には町年寄、月行司、町代が置かれていた。本来は前者を郷方役人というのに対して、後者を町役人というが、本稿で紹介する「堺南北垣外宗旨御改帳」では、垣外を町役人といっている。幕末には、公儀の役人とは異なるという意味で、広く町役人と称していたものと思われる。
二 垣外の職務と収入
垣外は南北各組一五名で、南北郷屋敷に住み、郷から給銀をあたえられたが、その職務はつぎのとおりである。
一御番所垣外部屋江毎日昼四人夜弐人宛相詰、諸事御用御使等ニ罷出申候
一諸事御用并御検死有之節、被召連罷出候
一牢屋敷牢舎人之番、昼夜相勤候、并御吟味拷問之節、相働、縄取等仕候
一下手人御仕置者御座候節、首打仕候
(「惣代職事并垣外勤方書」『堺市史』第五巻資料編第二所収)
すなわち、堺奉行所における諸事御用御使、検死の際の随行、牢屋敷における囚人の看視、吟味・拷問の際の縄取り、処刑に従事した。これは、近世の賤民身分の職務にほぼ等しい。江戸では、「首打役は町同心のうち当番の者がこれに当たるが、様斬の御用を勤める麹町平河町の浪人、山田朝右衛門の門人がこれに代わることもあった」(瀧川政次郎『日本行刑史』)という。
「堺手鑑」によれば、垣外一人前の給銀は、一ヵ年三五〇目であった。惣代・職事・垣外の居所郷屋敷・給銀は、南北郷中より遣わすことになっていたが、南北傾城町並びに農人町筋は垣外給銀の割り方のみ負担することとされていた。傾城町が垣外の給銀を負担していることに注目すべきである。郷方役人といっても、垣外の給与のあり方には問題があるといわなければならない。そのほか垣外には鐘つき給銀があった。
また、つぎの承応二年(一六五三)正月付「錦中濱式目帳」及び安永三年(一七七四)九月付「車東大工町格式帳」によれば、町内で家屋敷の売買があったとき、惣代・職事とともに垣外が祝儀をもらったことがわかる。後者では、髪結に続いて「長り」に祝儀として銀壱匁遣わすことが記されている。なお、これまで確認されているうちでは最も古い堺の町式目である、元和二年(一六一六)一二月付「錦町中濱萬儀定帳」には、町役人及び郷方役人等への祝儀に関する規定がないことに注意すべきである(『堺市史』第五巻資料編第二)。
宝暦六年(一七五六)御目付岡部久太郎が江戸より堺へやってきたおりの書付(個人蔵)が残されている。それによれば、惣代・職事・垣外は、郷中より給銀を与えているにもかかわらず、御公儀の御役人のように心得ているので、改めるよう戒められている。また名前切替、吉凶の際の付届等、万事町人へ無心がましきことをしないよう、もしそのようなことがあれば、町人に命じてお咎があるべきであると述べている。なお、続けて長吏について、「町より養を請、渡世仕候故、憐愍を加へ遣候様可仕候」と述べたうえで、がさつがましきことがあれば、さっそく申し上げるよう町人に命じている。
三 垣外町
「元禄二年堺大絵図」(前田本)によれば、甲斐町筋寺町の一画に「垣外町道幅二間」を挟んで「南本郷屋鋪」があり、一方の屋鋪に「垣外居所」と書かれている。
また、妙国寺の南に「北垣外町」(「袋町」の付箋貼付)があり、「籠屋」(牢屋)を挟んで「北本郷端郷垣外屋鋪」がある。元禄九年(一六九六)「泉州堺水帳覚」(個人蔵)には、「牢屋敷境内東西八間南北拾六軒半」、「垣外番所壱間南北弐間」と書かれている。
山澄元氏(「堺大絵図に関する地誌的考察」『元禄二己巳歳堺大絵図』前田書店、一九七七年)によれば、北垣外町は、四辻制下には正式の町名としてあげられず、元禄一〇年に北組東筋に属する一町として袋町が正式に町に加えられ、垣外屋敷も享保年間に移転して、北垣外町の通称は自然消滅した、ということである。なお、袋町には岡場所があった(井原西鶴「好色一代男」)。
四 南北垣外宗旨手形人別帳
文久元年一〇月付「南北垣外宗旨手形人別帳」には、寺請状(「宗旨請状之事」)が綴じられている。各垣外の寺請状は、旦那寺より惣代宛に出されている。北組垣外庄助のみ、宗旨請状では和泉屋という屋号がある。ただし、その屋号に「垣外中間」という肩書記載がある。
人別帳では、北組垣外小頭佐七を筆頭に、次いで南組垣外小頭新六の順で合わせて三〇名の垣外及びその家族が旦那寺より宗旨の証明をうけている。人数合計六八名(男四二名、女二六名)。宗旨の内訳は、浄土真宗二八名、真言宗一七名、浄土宗二二名、法華宗一名である。
なお、同人別帳の入っていた袋の表書きによれば、ほかに文久元年一〇月付「惣代職事宗旨手形人別帳」のあったことがわかる。同じ郷方役人といっても、惣代・職事と垣外の間には、職務内容に基づく差別的処遇があったものと思われる。
五 堺南北垣外宗旨改帳
前書きの第一条には、次のように書かれている。
一毎年被仰付候町役人宗旨改之儀、此度就御穿鑿、南北垣外此妻子召仕之男女旦那寺者、組中互立合相改、寺請状取置申候事
通常、町人身分の場合ならば、町人宗旨改とあるべきところが、垣外の場合、町役人宗旨改とされている。宗旨手形人別帳には、妻子についても記載されていたが、宗旨改帳は垣外本人のみ記載されている。
つぎに垣外三名が暇を遣わされているのが注目される。すなわち、北組巳之助、南組徳兵衛の両名は「御預ケもの番方ニ付不行届」があったため、文久二年七月一二日、八月九日に暇を遣わされている。さらに南組喜助は「不束之儀」があったため、八月九日暇を遣わされている。
宗旨に関しては、北組次郎兵衛が、浄土真宗延長寺より真言宗長楽寺に改宗している。
最後に旦那寺が連判を押している。宛名は、堺御奉行所である。「堺南北垣外宗旨改帳」の表紙の左下隅に控と書かれているので、おそらく両文書は、惣会所文書であったものと思われる。
おわりに
周知のように近世の大坂では、非人仲間の居住地又は非人仲間のことを垣外といっている(「此垣外与申義ハ乞食仲間住居仕候所之名ニ而、都而乞食惣名を垣外与唱申候」難波村庄屋甚左衛門、『道頓堀非人関係文書』上巻)。したがって、大坂の垣外は非人身分である。堺のような郷方役人としての垣外ではない。
堺にも四ヶ所に非人の居住地が設定されていた。元禄九年「泉州堺水帳覚」によれば、つぎのとおりである。
「堺手鑑」によれば、四ヶ所長吏手下のものは、石河土佐守奉行(承応元年から寛文四年)の頃より、御仕置者がある場合、諸事御用をつとめたが、享保八年(一七二三)舳松村の穢多身分の人びとが願い出たため、その役目を免じられたとされている。
元禄一〇年から同一六年にかけて、一時垣外が廃止されて、その代りに南北に一〇人宛、給銀三〇〇目の小使が置かれたことがある。これは、元禄九年から一五年まで、一時堺奉行が廃止されて、大坂町奉行の支配となったことと関連している。大坂町奉行にとって、四ヶ所長吏手下の非人ではない、郷方役人としての垣外は、その名称からして職制上の混乱をまねくと認識されたものと考えられる。
近世堺の垣外は、非人身分の職務とほぼ同様の職務に従事したが−そのために垣外という役職名がつけられたと思われるが−、法的には非人身分ではない。南北両郷に雇われた末端の役人であった。近世堺の町制、宗教なども視野に入れ、四ヶ所長吏手下非人について調査研究することが今後の課題である。