調査研究

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大阪の部落史通信・19号(1999.10)
のびしょうじ『食肉の部落史』を読む

寺木伸明(桃山学院大学)

 私たちの研究仲間・のびしょうじさんが、「最初の単著」(「あとがき」)を出された。嬉しいかぎりである。しかも、部落史研究の立場・視点から食肉史をまとめた本としてはおそらく初めてのもので、その研究史上の意義は、大きいと思う。

一 本書の構成と内容

 まず本書の構成の概要を示すと次の通りである。

第一部 食をめぐる部落史
 第1章 食をめぐる部落史
 第2章 食をめぐる部落史 拾遺第二部 食肉社会史のゆくえ
 第3章 近世社会の食肉問題とケガレ
 第4章 江戸時代の肉屋さん
 第5章 肉屋誕生前後―近代食肉社会史の構想―
付章 <書評>原田信男『歴史のなかの米と肉』

以下、各章の内容について紹介していきたい。
 第一部第1章では、前近代の社会においては、共同飲食(共食)が、共同体秩序を維持する機能を果たしてきたことを示し、とくに共食が身分序列を反映することを述べる。続いて、肉食文化は、被差別民によって育まれてきたことを指摘するとともに、食肉の歴史を概観する。その中で、「牛馬肉と他の肉との区別」の必要を説く。牛馬肉の忌避が、他の肉のそれに比べて、とくに厳しいものがあったからである。著者は元禄一七(一七〇四)年の尾張藩の触れでは、食穢について牛馬は一五〇日、豕(豚)・犬・羊・鹿・猿・猪は七〇日などとなっていることを示して(二九頁)、説得的に論を進めている。

 ついで、肉食忌避は、仏教の「動物殺生禁止のイデオロギー」に関係しているとし、「日本的賤視差別のイデオロギー構造の原形が形成されてくる」(三四頁)と述べる。ところが、実際には、中世の河原者は肉食をしていたことを指摘し、近世でも武士や庶民たちが牛馬肉食をしていたことを史料に基づいて明らかにしている。

 さらに近代日本成立期の肉食についてふれたのち、近代部落の主食について分析する。奈良県・滋賀県・京都府・神戸市・大阪市などの部落を取り上げているが、部落の場合、麦飯・大根めし・茶粥・雑炊などが主食であったことを明らかにしている。

 「ナカモンの発見」の項において、牛の臓物の語源を追求した上、「ナカモン料理と加工品」を詳しく説明する。あぶらかす・こごらかし(煮凍り)・サイボシなど、改めて部落の食肉文化の豊かさが感じとれる。このあたりの叙述は、著者の自家薬籠中のもので、さすが、という感じがする。

 第2章では、『大阪府保健衛生調査報告』第二編(一九二一年刊)に基づいて、大阪・葉村町の部落の人びとの食事実態が詳しく分析されている。
 第二部第3章では「近世社会の食肉問題とケガレ」がとりあげられている。しかし、この章は、第一部第1章の叙述と重なる部分が多く、関係史料を例示して補足する形に終っているのが惜しまれる。

 第4章では、江戸時代の肉屋の存在とその実態を明らかにしている。著者は、九州の秋月藩内の食肉をめぐる状況の推移について、武士の平井孫右衛門の『望春随筆』をもとに、牛肉は干肉であっても長崎に求めなければ得られなかったものが、寛政・文化期には必要な時に皮田に頼んで持参してもらえるようになり、さらに化政期から天保期になると、行商で毎日のように売りに来るようになったことを指摘している。さらに和泉国・河内国・大和国・播磨国の事例をあげて、屠牛の方法・牛肉販売の実態について詳細にふれている。

 第5章では、食肉史を部落史の観点から再構成するとはどういうことか、という問題関心に基づいて、一九世紀後半から二〇世紀前半までの期間を対象として食肉業が自立してくる過程を解明しようとしている。そのなかで著者は、文明開化は牛鍋・スキ鍋の流行を生み出したが、牛肉食への「忌避感=ケガレ」が解消されたわけではないことを強調している。続いて著者は、一九〇六(明治三九)年四月の屠場法は、一九五三年に廃止されるまで公営屠場の根拠を提供し、「儲けは町村、差別はムラ」の仕組みを固定したことをさまざまな史料を用いて明らかにしている。

 さらに著者は一九三五年の大阪府・市商業調査をもとに食肉小売店舗の成立について詳しい分析を行っている。

 以上が、ごくごく簡単な紹介であるが、本書は、現在の食肉史と部落史の研究水準を踏まえながら、多くの史資料を駆使して前近代から近代における<食肉の部落史>をまとめたすぐれた書物であると思う。
 しかし、本書の叙述には、残念ながら、いくつかの問題点もあるように思われるので、以下、その点について述べていくことにしたい。

二 本書の問題点

 一つには、事実の誤認や史料解釈の間違い、ないしは問題と思われるものが、いくつか見られることである。‡@本書三五頁に、「河原又四郎」や「千本の赤」らが、「自らは肉食をしないという一点で脱賤の道を歩んでいると述懐している。」とあるが、又四郎の言葉は、「某一心に屠家に生まれしを悲しむ。故に物の命は誓うて之を断たず、又、財宝は心して之を貪らず」 (『鹿苑日録』延徳元年六月五日条)というものであって、「肉食をしない」とも述べていないし、そのことで「脱賤の道を歩んでいる」とも述懐していないのである。これは、のびさんの深読みではなかろうか。

‡A同頁に、「『穢多』の語源をエトリに求めることは、かなり古く今昔物語(一五・二七・二八話)や倭名類聚抄以来の『定説』である」とあるが、「ヱトリ」に求めた最初のものは、よく知られているように、弘安一〇(一二八七)年ごろの成立といわれる『塵袋』である。『今昔物語』や『倭名類聚抄』には、「恵止利」「餌取」のことは出しているが、「ヱタ」の語源を「ヱトリ」に求める記述は見えない。

‡B三九頁〜四〇頁に、「彼(荻生徂徠―筆者)は穢多への賤視の根拠を″肉食のケガレ″に置いた(『政談』)。それ以前の儒教には、肉食のケガレをもって賤視を説く論理はみられず(衣笠安喜『近世儒学思想史の研究』法政大学出版、一一七頁)、『生類憐み令』とその後の仁政イデオロギーを経て徂徠によって体系化されたのである。」とあるが、荻生徂徠の『政談』は、賤視の根拠を「肉食のケガレ」においているのではなく、「遊女・河原者」は、「其種姓各(格)別ナル者故、賤シキ者ニシテ」とあるように、「種姓」の違いにおいているのである。また、著者が典拠にあげている衣笠氏の著書の当該頁には、「肉食のけがれを理由に『穢多』をとくに賤視する思想は近世儒教にはないのであり、むしろ基本的にこれを否定するものであったのである。」とあって、著者の主張とは違うことを述べているのである。もっとも、この衣笠氏の主張が正しいかどうかは別問題であるが(衣笠氏のこの本については、三宅正彦氏の痛烈な批判がある。『日本史研究』第一八八号、一九七八年四月)。

 第二に、論旨に矛盾・齟齬がみられる箇所のあることである。
‡@二〇頁に「三日にあげず食卓に上る肉料理であるが、これは日本人にとって、ちょっと大袈裟な言い方になるが、明治以降に突然登場してきた材料なのである。」とあるが、著者は、本書において、とくに近世後期において、武士・町人・百姓の間にも、食肉がかなりの程度、広がっていたことを強調してきたのではなかったのか。「ちょっと大袈裟な言い方になるが」と断っているものの、この表現は本書の趣旨に合わないのではないだろうか。

‡A二一頁に「肉食について述べる前に、それがいわゆる和食のメニューからはずれたものであった点を確認しておく。」と述べながら、すぐあとで「‥‥日本料理の基本型が成立していく。これが江戸期に成熟する。その特徴は、」として、(イ)〜(ホ)まであげているが、その(ニ)に「獣肉が極端に少ない」とある。かりに「極端に少な」かったとしても、厳密に言えば「和食のメニュー」から「はずれたもの」とは言えない。著者があげている寛永二〇(一六四三)年刊行の『料理物語』の料理品目表にも、少ないけれども「獣」が八品目あるとされている(二二頁)。けっして「獣肉を排除し」(二三頁)ていない。

 著者の言わんとするところはよくわかるのであるが、やはり表現には十分気を配ってほしいものだ。
 第三に、「大坂枚方」(一二九頁)という表記に見られるようなケアレス・ミスや文章表現上のまずさが若干みられることおよび誤植が少なくないということである。
 以上、著者ののびさんにならって歯に衣を着せずに問題点を率直に指摘させていただいた。しかし、こうした問題点があるとしても、本書が、食肉史に部落史の側から鋭く切り込んだ、すぐれた書物であることにはかわりはない。本書が刺激となって、″食肉の部落史″研究が活発となり、研究がいっそう深められることを願ってやまない。
 (明石書店、一九九八年一一月三〇日、A5判二四七頁、定価二三〇〇円)