調査研究

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大阪の部落史通信・20号(1999.12)
西鶴と被差別民衆

森田雅也(関西学院大学)

(一)

 文学作品を資料として検証する場合に注意すべきことは、史料と違って、常に作者と読者層の関係を考えていなくてはいけないという点である。作者は予めこの作品を読むであろう読者層を想定し、その反応を計算している。そこには作者から受容者、即ち読者へのメッセージがある。作者は読者と交信しているのである。

 西鶴は『武家義理物語』[貞享五(一六八八)年刊]の序文でこう書く。

 それ人間の一心、万人ともに替われる事なし。長剣させば武士、烏帽子をかづけば神主、黒衣を着すれば出家、鍬を握れば百姓、手斧つかひて職人、十露盤をきて商人をあらはせり。其家業、面々一大事をしるべし。

 近世封建社会の身分制度の下で、これほど大それたメッセージはないであろう。士農工商の身分制度を単なる職業(家業)だとするのである。すなわち、万人平等主義を唱えるのである。つまりは、これが作者西鶴の身分制度への視点であり、読者にも協調を求めるのである。『武家義理物語』とする以上は、「武家」も読者として参入してくることを承知である。そこで敢えて、士農工商を身分として否定する西鶴の意図はどこにあるのであろうか。

 西鶴には『世間胸算用』[元禄五(一六九二)年刊]という代表作がある。その巻四の一「闇の夜のわる口」には祇園八坂神社の大晦日の行事をあげる。これは老若男女が左右に別れ、神前の灯火を暗くして、面体をわからぬようにして、悪口を言い合うというものである。「おまえは正月三が日のうちに餅が喉に詰まって死ぬぞ」とか「おまえの女房は寺の大黒の果てだ」とか「おまえの姉はお腰をせずに味噌買いに行って道でころぶぞ」等悪口雑言。その中でも勝ち残っている雄弁の男がいたが、彼に向かって「正月布子を着た者と同じように言うな。この寒いのに綿入れも着ず何を申すか」と誰かが言うと沈黙してしまった、という話である。この暗闇の状況では、どんな身分もどんな出自も役に立たない。その中で威勢のよかった弁の達人は、「貧」であるという真実を突きつけられて、降参してしまったのである。即ち、ここからは、「貧富」が世の上下を作るというメッセージを受け取るのである。

(二)

 このような西鶴の発想を知りつつ、西鶴の描く被差別民衆を探ってみたい。

 西鶴作品には「非人」がしばしば登場する。『本朝二十不孝』巻四の一「善悪の二つ車」は、広島の放蕩息子二人が零落するところから始まる。この放蕩仲間は源七、甚七と言うが、食い詰めて、「厄払い」の「乞食」となって、岡山まで落ちて行く。しかし、「袖乞ひ」しても食べていけず、悪知恵を働かせ、「野非人」の老人二人と謀り、甚七は一方の老人を「片輪車」に乗せ、源七ももう一人の老人を「負ひて」、偽の親子として、人々の慈悲にすがり、物乞いとして成功する。各々我が家を持つまでなるが、甚七は老人につらく当たり、源七の方は「まことの親のごとく」老人をいたわる。この源七の孝行ぶりに、甚七方の老人は「世を嘆き」、甚七を恨みつつ死を選ぼうとする。そこへその老人の実子が、東国で「五百石」取りの武士になったと、父を迎えにあらわれ、源七の孝行ぶりを聞き、源七を抱えることとし、源七方の老人までも面倒みることとして、皆で東国へと旅立って行く。後に残された甚七はさらに食い詰め、姫路の書写の麓で死んだ、という話である。話の眼目の善悪、孝行話はおき、甚七方の老人について考えると、この話の大団円には無理がある。

 甚七方の老人が元は武士であったと嘆く場面はあるが、現実として非人である三人が、身分を復し、ここまで晴れやかな結末が与えられることは困難であったろう。説経などの結末に、このような祝言形式での終わり方をみるのは、仏教感化のためにやむを得ない装置ではあった。しかし、当代を背景に話を展開する浮世草子にあって、このような非現実的な終末を物語に与えるのは、西鶴の意志とすべきであろう。実際、西鶴は地の文で「野非人」の甚七方の老人に「この人、そもそもは賤しからず」としている。これこそ、『武家義理物語』で確認した身分を否定した職業概念に通じているのではあるまいか。その点は『日本永代蔵』巻二の三「才覚を笠に着る大黒」でも確認できる。京都の大金持ち大黒屋の長男新六が放蕩の末、帳簿に穴をあけたので、親に勘当される。新六は無一文で江戸に向かうが、途中死んだ黒犬を拾って焼き、「狼の黒焼」と騙して売る。何とか品川の東海寺までたどり着き一夜を明かすが、その傍らで「非人」たちがする、落ちぶれる前の身の上話を耳にする。新六は非人たちに儲け話の教えを乞い、切り手拭売りのヒントを得、それが成功し、五千両の大金持ちとなった、という話である。ここでの「非人」たちも「皆筋なき乞食」と西鶴はする。そして、『本朝二十不孝』と同様にまた、「非人」が放蕩息子を救うのである。そして、両者の主人公もまた、一時的であれ、「非人」仲間となるのである。

 他にも武家物の『新可笑記』巻五の三「乞食も米に成男」には、「非人」の身から武士に復する話があり、『男色大鑑』巻三の五「色に見籠は山吹の盛」には、「非人」に思いをかけられ結ばれる話がある。これらを含め、西鶴は、主人公に絡む「非人」の場合には、いずれもに幸せな結末を与えていることが確認できる。

(三)

 だからといって、西鶴が「非人」を貴人の「やつし」であるかのように認識していたわけではない。『男色大鑑』巻二の一「形見は弐尺三寸」には挿絵で非人小屋をあげた上で、「世のうき事」のみ目につくとしている。また『懐硯』巻五の二「明て悔しき養子が銀筥」の場合のように、主人公が生きんがために「非人」に自分の衣装、脇差などを与えたうえで殺し、自分の身代わりにして逐電するような悲惨な話もあることからは、「非人」がけっして現実的には人並みの生活を与えられていないことを知っていたといえる。いや、むしろ、先述の『日本永代蔵』に「車善七」の名が出てきたり、『本朝二十不孝』の非人が抱え非人とではない、野非人としていることなどからは熟知していたと考えられる。読者もそうであろう。それゆえ先述のように「非人」に幸福な結末を与えることは読者へのメッセージなのである。つまりは当時の農工商の読者や武家物の読者である士に、故なき身分を与えられて苦しんでいる人たちの境涯を疑問符としてつきつけたのである。

 そのような読者層の前に西鶴は、草履と鍋取りという藁細工だけで大金持ちになった話(『懐硯』巻二の一)や奈良草履屋をたたんで懐炉を発明して大金持ちになった話(『西鶴織留』巻一の二)などの成功譚をあげる。それも西鶴が新しい被差別民衆のイメージをメッセージにこめている例といえよう。紙幅に限りがあり、例示に事欠くが、この分野の研究は、現在製作中の『新編西鶴全集』(勉誠出版)の単語検索完成を待って、格段に飛躍するであろう。私もその編集委員としての作業の余滴でこのような研究を行えた。途次ながら報告としたい。

(本報告は一九九九年七月三一日に行われた、第二四回大阪の部落史委員会近世部会においてご報告していただいた内容の要旨です。事務局)