調査研究

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大阪の部落史通信・21号(2000.3)
大阪における貧困対策事業と部落
ー就学奨励事業を通じてー

伊藤悦子(京都教育大学)

はじめに

 『大阪の部落史』の史料集(近代編)の編纂に参加し、水平社創立以降の教育史について検討しているなかで研究課題として浮かび上がってきたことは、被差別部落の貧困と子どもの教育実態、それに対する行政施策の内実ということであった。先行研究である『京都の部落史』などでは、著名な崇仁小学校関係史料をもとに大正期から昭和前期における部落の子どもたちの実態や教育実践が叙述されているし、また筆者が関わった『近江八幡の部落史』や『野洲の部落史』(近日刊行予定)では、一般対策としてなされた貧困児童に対する就学奨励の受給状況などが明らかにされているが、大阪における先行研究ではそうした叙述はほとんど見られない。もっとも大阪市の貧困児童に対する教育施設であった徳風、有隣、豊崎の勤労学校については史料が残されていることもあって研究が進んでいるが、逆にいえば、大阪市のなかの一地区の状況のみが明らかになったにすぎない状況である。こうした研究状況について、布引敏雄「大阪の融和運動・融和事業」(『新修大阪の部落史』下巻一九九六年四月)が、地方改善事業と一般対策である社会事業との関連を明らかにする必要を問題提起しているが、史料に即した検討が行われてはいない。

 そこで、本小論では編纂過程で明らかになった史料を踏まえて、教育に関する一般対策としてあった「児童就学奨励規程」の実施状況をみるなかで部落の子どもたちの状況を検討してみたい。

大阪府の児童就学奨励政策

 貧困児童の就学対策として大阪府は一九二四年(大正一三)十二月「大阪府児童就学奨励規程」を公布している。これは同年の皇太子(昭和天皇)成婚を祝して出された内帑金百万円のうち、大阪府に三万九九一三円が配布されたことから、この金額に三十万円を大阪府が上乗せして大阪府児童就学奨励資金とし、その利子、府支出、寄付金等を合計して各市町村に交付することになったのである。規程はその内容を決定したもので「第二条 市町村は前条の交付金、市町村の支出金及び寄附金等を以て貧困児童の就学を奨励するため、教科書、学用品、被服、食料、生活費の一部若は全部を給与又は支弁すべし」とし、市町村長はこの事業を実施するための規定を定めて知事の認可を受けることが明記された。

 その後、一九二九年(昭和四)一月には規程が改正され、国庫交付金が繰り入れられるとともに盲・聾児童へも対象が拡大し、一九三一年(昭和六)年五月には「大阪府学齢児童就学奨励規程」に改正されている。一九三一年の規程は、就学奨励の対象者を四種類に細分化し、貧困の度合いに応じて就学補助の内容に差を付けるようになった。

市町村における実施状況

 こうした一般対策による就学奨励の内実が市町村文書によって伺われる。たとえば、北河内郡水本村村会議案には「大正十五年中毎月一回宛就学奨励規程に依り貧困児童に対し教科書練習帳綴方帳硯筆墨クレヨン鉛筆ゴム画用紙及び半紙等を補給す、其人員七十名にして金額百三円八十五銭七厘なり」と記載されており、一人当たりにすると一円四八銭ほどになり、この金額は「毎月」ではなく一年間の予算であったと思われる。この当時、水本村は就学率は「一○○パーセント」であったが、児童の平均出席率は八七・二四パーセントで欠席児童の問題があった。こうした欠席児童あるいは就学奨励の対象者のなかに部落の子どもがどの程度含まれていたかは、水本村の場合は明らかにならない。

 ただ水本村の場合、大阪府児童就学奨励規程の公布以前、水本村戸主会(燈油)が大正二年から基金を設置し、不就学児童の保護や通俗教育の奨励を行っていたことから、水本村の就学奨励対象者の多くが部落の子どもであったことが想像される。

 また、時代は下がってしまうが一九四○年(昭和一五)の堺市学事要覧によると、市内十三の小学校における就学奨励費支給の状況がわかり、そこから部落を含む学校と他の学校との差異が明らかになってくる。「就学奨励費支給児童調査表」によると、最も貧困で「教科書、学用品、被服、弁当料」を支給された児童は堺市全体で三四三名(堺市全体の尋常科児童二一九九七名<ただし、児童数が明らかでないので在籍児童父兄職業調の数値を利用>に占める比率一・六パーセント)、「教科書、学用品、被服」支給者二○二名(同○・九パーセント)、「教科書、学用品」支給者五五名(同○・三パーセント)であった。

 これに対して舳松尋常小学校の場合、全児童数八八九名のうち「教科書、学用品、被服、弁当料」支給者三一名、「教科書、学用品、被服」支給者二四名、「教科書、学用品」支給者七名で合計六二名、全児童数の七パーセントであった。就学奨励支給者の全児童に占める比率を計算すると、湊小学校が四・一パーセント、南旅籠小学校が三・二パーセントと高いものの、他の小学校は一パーセント台がほとんどで、舳松小学校に他の小学校に比べて突出して高い比率を占めていた。舳松小学校は校区に部落を含む学校で、こうした一般対策による就学奨励であっても、対象者に占める部落の子どもたちの比率が高いことがわかる。このことから、子どもたちの生活と教育の関連が垣間見えてくるのであり、一応なりとも就学するようになった昭和期の部落の子どもたちにとっても、貧困による「修学」の問題があった。ただ、この就学奨励事業によって子どもたちの長欠問題や「修学」が解決したわけではないことは、他の地方の部落史で明らかになっているが、大阪の部落史においても一般対策や融和教育に関する行政施策がどのような内実を持ったものであったかは押さえられるべきであろう。融和教育に関する行政施策の場合、尋常小学校を卒業し上級学校に進学した者を対象にした「育英奨励」はいわば部落のエリートに限られており、ほとんどの子どもたちは一般対策の就学奨励を受給するにとどまっていたのである。そういう意味でも一般対策でなされた貧困対策や社会事業が部落の改善にどれほど寄与したか、しなかったかを明らかにしておく必要があり、教育の領域で限定するならば、給食や託児事業、市民館における社会教育的活動も今後検討される必要がある。

 ちなみに、この統計の少し前の時期、一九二九年(昭和四)の堺市会で舳松地域の子どもの多くが少林寺小学校に越境していることについて、泉野利喜蔵が市側を問いただしている。市側は適切に処理していると答弁したものの事態は改善せず、昭和六年の市会においても再度泉野が質問していた。越境問題にはさまざまな要因が関係していたが、その一つの要因として貧困の問題があったことが推測できる。

 なお、これらの史料は編纂過程で新たに見つかった史料でなく、既に『大阪同和教育史料集』で収集されていたものがほとんどであった。大阪における融和教育、融和事業の検討においては、一般対策をどこまで視野に入れて考えるか、貧困問題と部落問題の違いをどうとらえるか、大阪市内と郡部の違いをどのように見るかなどを検討すべきである。そうしたいわば研究の枠組みづくりが、今後の史料集編纂や本文叙述の課題であろう。