調査研究

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大阪の部落史通信・21号(2000.3)
古江村片岡の歴史

中尾健次(大阪教育大学)

はじめに

 中世の古江村は、細川荘に属している。細川荘は、古江以下六つの集落から成り立っていた。
 一般に中世の惣村は、一四世紀の南北朝前後に成立し、宮座や氏子の制度、入会権・水利権などの権益を確立していった。しかし、一四世紀以降にも惣村への流入はあり、新しい集落が生まれている。古い集落は、従来の権益を守るため、新しい集落をさまざま営みから排除しようとする。ここで古い集落と新しい集落との間に、差別・被差別の関係が生まれてくる。細川荘を構成する集落も、お互いが差別・被差別の関係にあったと推定される。

 また、細川荘の集落は、おおきな、あるいは農業を主たる生業とする集落が六つあったということで、他に集落がなかったということではない。これら以外の小さな集落、あるいは農業生産からはみ出した集落は、近世においては近くの″主たる集落″に付属させられる場合が多い。これが「本郷」と「枝郷」の関係となる。近世に「古江村片岡」として登場する地域も、そうした″傍系的な集落″の一つであったと考えられる。

 ところで「片岡村」の史料的初見は、万治三年(一六六〇)の「畑地譲渡証文」二点である。この史料から、「片岡村」が少なくとも万治三年には、集落として成立していたこと、ただし独立村でなく「枝郷」であったこと、しかも、この段階である程度の経済力を備えていたことなどがわかる。その経済力が、どのような生産活動によってもたらされたのかが興味深い。

1、片岡村の農業

 近世の片岡村は、「片岡皮多」「古江村皮多」などと記される。「皮多」の語は、当然皮革産業とのかかわりを想像させるが、近世の片岡村には、皮革業にかかわっていた形跡がない。ではどのような産業が、片岡村を支えたのだろうか。

 ある地域の経済活動を判断する時、人口の変化を目安にすることがある。人口の増加している地域は、経済活動がおおむね活発で、停滞もしくは減少している地域は、経済活動も停滞、または衰退している。

 古江村の場合、人口の変化がわからない。そこで、戸数の変化で村勢を類推してみると、古江村本郷が、近世中期から幕末にかけて戸数を減らしているのに対し、片岡の場合は、九十年ほどで倍に増えている。

 一般に近世中期以降、農業を主たる生業とする村の人口・戸数は、停滞もしくは減少する。一方、手工業生産などに従事している村では、人口・戸数は増加傾向を示す。古江村本郷は前者、片岡は後者の特徴を示している。つまり、両村落における戸数変化のちがいは、両村落の経済構造のちがいに起因すると考えられるのである。

 まず、農業生産の側面から考えてみよう。古江村本村の場合、圧倒的に上田が多く、中田・下田がそれに次ぐ。ところが、片岡については全く状況が異なる。まず上畑がなく、中畑→下畑→下々畑の順に比率が高くなっている。片岡村は、古江村のなかでも特に地味の悪い土地を占めていた。こうしたことから、近世前期の片岡村の農業生産は、かなり劣悪であったことがわかる。

 ところが幕末の片岡村は、村内の耕地を倍以上に増やしている。これはなんらかの資金源があって初めて可能になるわけで、それがなになのか、新たな疑問が生まれてくる。

2、片岡村の酒樽運送

 弘化二年(一八四五)から三年にかけ、片岡村の一五人の村民が、上止々呂美村から依頼された樽丸五一三丸を、伊丹天王町の樽屋五軒へ移送している史料がある。

 「樽丸」とは酒樽の半製品のことで、伊丹の酒造業者が伊丹の樽屋に注文し、さらに伊丹の樽屋から上止々呂美村へ酒樽の調達が依頼されたものだろう。そして、その酒の運送を片岡の住民が担っているのである。

 上止々呂美村から片岡まで、さらに伊丹天王町までの距離を考えても、実際の運送が足かけ二年という長期に及び、酒樽の数も何百丸に達していることを考えても、臨時の仕事ではなかろう。おそらく酒樽運送を含む運送業が、片岡村の日常的な生業であったように思われる。

 酒樽の運送に従事している片岡の住民は、一五人である。片岡には天保一三年(一八四二)段階で二八軒、嘉永二年(一八四九)段階で三三軒の家があった。一五人の四分の一強が戸主で、当時片岡村の惣代をつとめていた者もいる。こうした点からも酒樽運送は、臨時の副業ではなかったことがわかる。

 ところで、こうした運送業は、どのていどの利益になったのだろうか。史料によれば、酒樽二五四丸について一〇両の雑費がかかるという。大部分が運送の経費であろう。五一三丸ならば倍の二〇両となる。これを酒樽運送にともなう片岡村の収益とすれば、かなりの収入源といえる。

 おそらく、こうした運送業は、片岡の生活を支えたばかりか、一部の住民にとっては、周辺地域に土地を確保するための資金源にもなったと考えられる。また、片岡村が、こうした流通部門においてではあれ、池田・伊丹の酒造業にかかわっていたことは注目されてよかろう。

(詳しくは『新修池田市史』第2巻収録の「古江村・片岡の歴史」をご参照下さい。)
※ここで表記した「樽」は、原本では旧字体で表記されていました。