調査研究

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大阪の部落史通信・22号(2000.6)
三新法期の農村部落
−『南王子村文書』をてがかりに−

吉村智博(大阪人権博物館学芸員)

 刊行されて久しく経過するのに、一向にまとまって利用されない資料集がある。指を折ってみると、部落史研究ではそうした類が多くあるようだが、大阪の部落史についていえば、さしずめ『大阪府南王子村文書』全五巻などがそうだろう。産業や行財政、教育、興業などさまざまなジャンルの資料が翻刻されているにもかかわらず、同資料集そのものをまとまって分析した研究というのはあまりみられない。時折、立論の都合にあわせて引用されるのを見かけるが、いずれも南王子村の全体像を描こうとするものではない。

 ところで、部落史研究史上で、一八七八(明治一一)年のいわゆる三新法(郡区町村編成法、府県会規則、地方税規則)については、考察の対象とされることがこれまでほとんどなかった。三新法の施行は、近世村落を名実ともに行政村へと再編していく歴史的画期となり、部落においても、職務分掌や部落有財産との関わりから少なからずその影響を受けることになったにもかかわらずである。

 もとより、資料の不足が研究の停滞に大きく影響しているのだろうが、『大阪府南王子村文書』全五巻には、まさしくこの時期にかかわる資料が収録されており、三新法期における農村部落の財政や生業構造の特質がわかる格好の材料なのである。

 たとえば、南王子小学校では創立から六年後の一八七九(明治一二)年に新校舎の建設問題がもちあがる。大地主が存在せず基本財産の造成がむずかしい一方で、一村独立として学校教育を維持していくために、同村では村内の寄附金に依拠せざるを得なかった。この新校舎建設問題にからんで、寄附金不徴収問題が惹起し、問題の解決に、村の主導層が大きな力を発揮することになる。

 一八八二(明治一五)年に落成した新校舎の必要経費の償還には、当初から村内の寄附金を充当することになっていた。しかし、寄附金が予定通り徴収しきれず、八三(明治一六)年二月以降、寄附金に応じない一部の村民に対して再三にわたって督促がおこなわれる。一方、滞納されている建築費の一部は地域有力者が代替負担しており、こうした有力者のなかには、表商人(雪駄・下駄表とも)も多く含まれている。雪駄表の製造は、近世から同村の生業として命脈を保ってきたからである。つまり、南王子村に息づいてきた表製造は、問屋制家内工業的な展開をみせ、それにかかわる表商人、表編み職人の存在がクローズアップされるのである。

 南王子村での表製造の組織的な背景を知ることのできる資料としてあげられるのが、次の資料である。同業組合ともいえる履物表組合なる組織が、一八八六(明治一九)年に出したものである。『大阪府南王子村文書』第五巻、六七〜八頁に掲載されている資料である(ただし、姓の部分はすべて□□で示した)。

御 願

一、私シ共外三拾五名ヨリ履物表組合規約御認可之義、曩ニ本府庁ヘ願出候処、右ハ重要物産中ノ部分ニ無之、且本業ノ如キハ、到底一致実行シ得ベキモノト難認旨ヲ以テ書面却下ニ相成、其旨御伝達被下候処、然ルニ本業之如キハ重要物産中ノ部分ニ無之ト雖モ、右履物表ノ義者、我日本全国人民日常用フル物品ニシテ、又吾南王子村ニ於テハ最モ重要ノ物産ナリ、如何トナレハ全村婦人挙テ該履物表ヲ製作シ、又男子ニ於ケルモ拾ニ五分ハ之ガ職工ヲ為セリ、然ルニ粗製濫造、且売買上弊害アリテ到底規約ヲ設ケ、之レヲ矯正スルニ非ラザレバ倍々一村ノ衰頽ニ陥ル患ヒアリ、故ニ飽迄取締ヲ為シ実行仕度、且組合仲間中異議ノモノ無之ニ付、何分ニモ貴官ヨリ御指令可相成ノ御取斗相成度、此段願上候也

泉郡南王子村履物表商惣代

明治十九年九月三日

□□元三郎 印
(ほか六名連署捺印・略)

泉郡南王子村
戸長 □□亀太郎殿

 惣代はじめ三五人が組合の設立認可を申請したところ、重要物産ではないことを理由に却下された。しかしながら「日本全国人民」の日常履きであることを強調したうえに、村内あげて製造をおこなっている製品であり、組合を設立して「粗製濫造」を防止しないと村の存亡に関わると明記している。文面からすれば、近世以来の表製造のルールやルートを無視して売買する者への対策が急がれていたのかもしれない。

 組合加入者だけでなく、じつに多くの表編職人や商人がいたことは、少し時代の下った一九一八年の『部落台帳』(大阪府救済課)の職業構成を見てもあきらかである。雪駄業は、全村あげた生業といってもよい。

 こうした生業構造を背景として、地方自治および財政を統括する地域有力者が主導して、村内の有産、中産層を包摂しつつ、貧困層を牽引するなかで新校舎建設が推進されていった。営業割、戸数割など協議費を応分に負担する有力表商人とその傘下に多数の職人がいるという構造が、南王子小学校の新校舎建設問題に明確にあらわれている。

 部落史においても地域史の発掘があいつぐなか、既存の資料集は意外と利用されることがない。原資料に基づいて地域史が構築されること自体は有意義なことだけれども、翻刻された資料を総合的に分析して明らかになる地域史像もまた実際に存在する。

 そんなことを教えてくれるのが、『大阪府南王子村文書』全五巻に収録された一点一点の資料なのである。

 なお、今回明らかにしえた南王子村の当該期の実態については別の機会に詳しく論じる予定である。