近年の「部落史」研究において権力論は不評であるらしい。歴史学一般においては現在でも権力論は不動の位置を占めている。そして、寺木氏も権力論の復権を説く。では、どのような権力論なのか。
近世の人びとは、権力によって役を通して身分固有の職能に緊縛され、厳しい規制を受けていたという。網の目のように近世社会の肉体にからみつき、すべての毛穴をふさぐような権力観である。役は近世になって他律的・強制的に付与されたものと理解している。役を請け負う集団の権益確保との関係、中世からの役・諸貢納の継承性(職の体系や移行期村落論との関わりなど)といった問題が抜け落ちている。役を基軸とする身分論を展開するのであれば、役それ自体の検討が不可欠であろう。
とりわけ本書では、「部落史」の混乱の元凶を朝尾直弘の「身分は町・村が決定する」というテーゼに求め、「近世の権力が町・村と規定して初めてそこの住人が近世の町人・百姓身分として確定された」と批判する。しかし朝尾は、中世惣村から都市と農村への分離過程を踏まえて権力的編成を論じ、かわたの権力的編成も認めている。かつて一九六○年代の「幕藩制構造論批判」において、百姓は農業生産に専念できる身分を獲得したという点で兵農分離の意義を確認している。ここにポイントがある。近世が中世の到達点といわれる所以である。
したがって、朝尾も含めて本書で批判の対象にあげている論者のいずれも、近世身分の権力的編成を認めていることになる。しかし、「身分はつくれる」といった具合に、領主権力による他律的・強制的創出はいずれの論者も認めていない。これが寺木氏との決定的違いである。権力的に「身分はつくれる」というなら、近世という時代に限っても、近世を通じて新たな身分を領主権力は創出できたか、社会的身分とされる存在を他律的・強制的に制度的身分に繰り込めたか(繰り込まないということも権力的と評価することはできるが、その権力意志を明らかにせねばならない)、もしくは、なぜ近世権力の成立期にだけ「身分はつくれる」ことができたのか説明してほしい。
権力的に「身分はつくれる」というテーゼが孕む問題は、国家/社会という二分法にあろう。どちらが本質的か、またはどちらが絶対的主体か、という立論である。脱構築論者でなくとも、このような立論はしないだろう。たとえば、塚田孝・高木昭作にみられるような疑似社団国家論、その後の塚田の周縁身分論、身分論に限らず中間支配機構や国制史の議論など、国家/社会をどう切り結ぶのかという努力がなされてきた。本書でも政治権力以外の要素を列挙し、それらとの関係の検討を要請しているが、副次的な位置しか与えられていない(しかも、それら自体、国家/社会を貫通するような、抽象度の高い概念−分業や階級や集団など−であり、論理序列・構造を明らかにしないままでは使用に耐えない)。また、各要素における規定性の度合いという表現を用い、強弱といった量的なものに還元して理解している。果たして量的規定で本質は理解できるのか。
近世身分と領主権力との関係に限って私なりに整理すれば、次のようになるだろう。武士身分(領主権力)は自らを創出するために、その前提として対他的に社会を創出せねばならなかった(兵農分離)。つまり自らの存立の前提を創出しなければ身分の編成主体になれなかった。同時に立ち上げられた社会の側においても、自らの職能・権益を確保する身分獲得であった。こうして、「平人社会」や「民間社会」と唱える論者もいるように、社会内部の諸身分は自らを成熟させてゆく。したがって、社会を立ち上げ諸身分の成熟を促す助産婦としての意味において、領主権力と近世身分の関係を押さえておくことができる。百姓身分に限らず、かわた身分においても中間搾取が排除されたことを想起すればよかろう(興福寺−奈良坂宿者−穢多という支配関係の解体、根来寺成真院による和泉国鶴原宿者からの加地子取得権の消滅など)。かわた身分の成熟の条件もつくられたのである。
国家と社会の関係と同様に、私は身分形成における<主体>や<超越者>なるものを認めない。身分は、対他的に相手をモメントに引き下げ、相互媒介的に自らを立ち上げ、相互に線引きすることで成立する。近世に限っていえば、領主権力によって立ち上げられる側面もあれば、他の諸存在(百姓その他)によって立ち上げられる側面もあり、身分は重層的・多元的に決定された複合体である。そして、対他的に一面的に表象されるため、他の側面との整合性・安定性が求められる。私は身分を新陳代謝する生命体と理解している。「身分はつくれる」のではなく、肯定的な意味であれ否定的な意味であれ、矛盾を引き受けながら「身分は獲得される」ものである。権益確保という自己同一性を貫きながら、それとは矛盾する側面や表象も受け入れ更新してゆく。ある<主体>による一面的な表象に依拠する<死んだ身分>でなく、脱中心化することで<生きた身分>を見出すべきではないか。
なお、念を押せば、「身分は獲得される」ものである点において、最終審級としての領主権力(朝廷・寺社権門を含む)の公認を求め、社会が領主権力による表象を借用・利用することもある。
「身分は獲得される」という意味で「賤民身分」について若干触れておこう。百姓・町人身分で陰陽師となっている事例をいくつも確認できる。社会的身分と理解されてきた夙者は、公家の家来や神人となってゆく。かわた身分は、死牛馬処理権・勧進権を放棄することなく百姓であると主張し、穢多身分であることを拒否し、卑賤視と引き換えに行刑役を積極的に引き受ける。このように、二重の身分をまとい、上級権力の公認を受け、矛盾を抱え込みながら自らを身分たらしめてゆく。
たとえ権力的に「身分はつくれる」としたところで、その時代を理解したことにならない。制度的身分がここかしこにあると指摘しても、国家権力が存在したという意味以上のことを語り得ないからだ。峯岸賢太郎への批判のなかで、その身分論が近代では通用しないという論理を展開しているように、身分規定の抽象的普遍を抽出することに意が注がれている。峯岸の身分論が正しいかどうか別にして、抽象的普遍の意味のなさを指摘している。たとえば、自然性的な身分がとる「形態」を問題にしており、またウェーバーの身分状況論を拒否していることにも窺える。制度的身分が普遍であると主張することだけで、社会的身分が特殊であると弁証することはできない。このような論理展開では、制度的身分も社会的身分と並んでまだ特殊なままである。身分論の二分法に固執する限り。
ところで、近代における制度的身分として天皇及び皇族身分をあげている。天皇及びそれを再生産する皇族身分の創出は、市民社会と国民国家を立ち上げるためのものであり、たとえ近世領主権力が身分を創出したとしても、そのことと意味内容が異なる。制度的身分といったような死んだ抽象的普遍を手に入れても、何ら分析の武器になり得なければ意味がない。天皇・皇族身分が創出されたから近代も身分社会であると規定したところで、それは臣民(国民)創出の装置であっても臣民(国民)内部に身分を創出するものだろうか。近代社会における身分原理は別のところにあるように思えるが、ここでは触れない。
身分論における二分法は、「部落史」の時間軸へと投射される。近世は制度的身分、近代は社会的身分という二分法である。にも関わらず、賤視・不浄視身分として連続させて把握している(これも「遺制」論ではないのか?)。身分の性格の違いを述べながらも、同じ身分社会ということでその違いを無効にする操作をおこなっている。連続させるならば近世かわたも社会的身分とすることもできよう。逆に、近代において社会政策の対象として「特殊部落」が特定されることを制度的身分と強弁することもできよう。また、差別の質は近代に転換したというが、賤視・不浄視が転換したということになっておらず、では何が転換したというのであろうか(差別と賤視・不浄視の関係がわからない)。
うがった見方をすれば、こうなるだろうか。制度的身分を普遍化することで、かわた身分の権力的創出論をフォローし、同時に近代を身分社会とみなして被差別部落民を非制度的身分と処理したため、今度はその身分の出所が問題となって近世からの連続性が持ち出される。これで被差別部落の近世政治起源説が完成する。つまり、権力的創出論と近世起源論は双生児である。その母胎は、身分規定の抽象的普遍−身分論の二分法−である。論じられるべき点は多々あるが、簡単に私見を交えながら、権力的に「身分はつくれる」という観点について論評してみた。本格的な身分論の研究史総括を望むところである。
(解放出版社、二〇〇〇年三月、 A5判二六四頁、定価一九〇〇円 +税)