調査研究

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大阪の部落史通信・23号(2000.9)
片岡智氏による拙著への批判に寄せて
−書くことの難しさと読むことの難しさ−

寺木伸明(桃山学院大学)

 本通信前号(二二号、二〇〇〇年六月)で、片岡智氏から拙著『近世身分と被差別民の諸相−<部落史の見直し>の途上から−』に対する批判をいただいた。できれば拙著全体を取り上げて、その上で主要な論点に絞って論評を加えてほしかったという思いは残るけれども−というのも、取り上げていただけなかった分野においても、<部落史の見直し>の状況を踏まえつつ、私なりに精魂をこめて書き上げたものもあるので−、拙著を取り上げていただいたことに、まずお礼申し上げたい。

 また、拙著のまえがきに「問題の重要性に鑑みて私がなした努力は微々たるものであると言わざるをえない。今後も、多くの方々との議論を通して研究を深めていきたいと考えている」と書いたように、拙著の内容に不十分なものがあることを自覚しつつ、議論を期待していたところであるので、ありがたかった。



 たとえば、拙論では、近世身分の特徴の一つとして役負担を重視しているのであるから、片岡氏が、「役を請け負う集団の権益確保との関係、中世からの役・諸貢納の継承性(職の体系や移行期村落論との関わりなど)といった問題が抜け落ちている」と指摘しているのは、その通りで今後の課題として追求していくつもりである。ただ、私が「役は近世になって他律的・強制的に付与されていると理解している」と片岡氏は断定しているが−これは私の文章表現が十分でなかったため、そのような解釈をされたのであると思うが−、私はそのようには考えていないことを断っておきたい。私の文章は次の通りである。「その際、そうした人びとに、死牛馬取得権を排他的に保証し、固定するとともに、行刑・警察役などの役目を負担・固定させるという方式をとって、つまりは政治的作為をもって、編成した……近世の権力が、死牛馬取得権の付与・固定化と行刑・警察役などの役負担の賦課・固定化という政策の遂行によって編成・設定した……」(拙著七四頁)。

 このように私は、けっして「役は近世になって他律的・強制的に付与され」たとは述べていないし、私としては中世にすでにこうした役を担っていた集団の場合は、近世の権力がそれを固定化したということも含めて言いたかったわけである。そのことは、明示的ではないが、それらの文章の直前に、近世の「えた」身分は、「中世の『えた』(『河原者』『キヨメ』)」などを核に編成されたことを述べているのであるから−そして中世の「河原者」が行刑役などを課せられていた場合のあったことは、よく知られているのであるから−、了解されるものと考えていたのである。その点では、死牛馬処理権の問題についても同様である。なお、役負担および死牛馬処理権の問題ともからめて、中世被差別民と近世部落との連続性について、非連続性の側面も配慮しつつ、不十分ながらも拙著『被差別部落の起源−近世政治起源説の再生−』(明石書店、一九九六年)で論じておいたので参照していただければ幸いである(たとえば一八四〜一八六頁、二一七〜二二四頁)。いずれにしても、先の私の表現が、その部分だけを取り上げれば、片岡氏のような読みとり方を生み出すような不十分な面をもっていたことは認めなければならないと思う。書くことの難しさを改めて感じた次第である。



 以下、片岡氏の批判について私の意見を述べていきたい。

 第一に、片岡氏は、次のように言う。「朝尾も含めて本書で批判の対象にあげている論者のいずれも、近世身分の権力的編成を認めていることになる。しかし、『身分はつくれる』といった具合に、領主権力による他律的・強制的創出はいずれの論者も認めていない。これが寺木氏との決定的違いである。……権力的に『身分はつくれる』というテーゼが孕む問題は、国家/社会という二分法にあろう。どちらが本質的か、またはどちらが絶対的主体か、という立論である」と。拙著のどの部分で、近世身分について片岡氏が理解するような意味で「他律的・強制的創出」を述べているのか明らかにしていただきたいものである。私は、近世の「えた」身分の成立について、一で少し触れたように、「中世の『えた』(『河原者』『キヨメ』)」などを核に編成されたと明記していること、中世の「ケガレ観とのつながりを重視し、承認していること」(拙著七四頁)などにより、なんらの前提なしに近世の権力が「他律的・強制的」に「えた」身分を「創出」したとは決して言っていないことは明らかであろう。

 また、私は、国家か、社会かといったような二分法はとっていないし、「どちらが本質的か、またはどちらが絶対的主体か」といった問題の立て方もしていない。私は、最近の<部落史の見直し>のなかにみられる、近世身分の成立に関する権力の政治的作為を無視ないし軽視する論調に反対して、次のように述べているのである。「近年の近世身分形成・成立史研究においては、もはや権力の政治的作為だけで論じようとするものはなく、分業・共同体・ケガレ観・前時代の身分などの諸要素・諸要因を重視するようになってきている。……たいせつなことは、これら諸要素・諸要因と身分形成・成立に対する規定性の度合いの問題である。……私はそれらの中で権力が最も強い規定性をもっていたと考えている」と(九二頁)。このように日本の近世身分に関して言えば、それらの要素・要因の中で権力が最も強い規定性をもっていたと考えているのであって、決して「二分法」をとっているわけではない。また、「どちらが本質的か」といった問題の立て方もしていないので、「果たして量的規定で本質は理解できるのか」と言われても、困るのである。

 なお、私は、朝尾直弘氏の業績全体を批判したのではなく、「近世の身分制と賤民」(『部落問題研究』第六八輯、一九八一年一〇月)および「近世の身分とその受容」(朝尾直弘編『日本の近世7 身分と格式』中央公論社、一九九二年)の中の、町人の身分は町(中)が決定し、百姓の身分は村(中)が決定したという主張が、掲げられた史料からでは論証できていないことを指摘し、かつ、いくつかの根拠をあげて間違っていることを指摘したのである(七九〜八三頁)。むしろ片岡氏には、私のこの指摘が果たしてどうなのかについて論評していただきたかったと思う。

 第二に、片岡氏は、「峯岸賢太郎氏への批判のなかで、その身分論が近代では通用しないという論理を展開しているように、身分規定の抽象的普遍を抽出することに意が注がれている。峯岸の身分論が正しいかどうか別にして、抽象的普遍の意味のなさを指摘している。……制度的身分が普遍であると主張することだけで、社会的身分が特殊であると弁証することはできない」と言う。これは、抽象的普遍と具体的特殊の関係の問題である。言うまでもなく、具体的特殊の解明を通して初めて抽象的普遍が明らかになるのであって、初めから抽象的普遍が見えているわけではない。しかし具体的特殊だけを解明して、抽象的普遍を見ようとしなければ、研究として不十分であろう。近代否、現代にも身分が存在するのであれば、前近代のみならず近現代にも通じる身分論、つまり身分の抽象的普遍の解明を行う必要があるのは明白である。従来は、身分は前近代に固有の産物であって、近現代のそれは存在したとしても遺制にすぎないという前提で研究がなされてきたので、無理もなかったと考えるものであるが、いまや現に存在するものから見直してみるという視点が大事であるということを問題提起したつもりなのである(二〇〜二四頁、四一〜四二頁、九四頁)。また、私は、制度的身分が普遍であり、社会的身分が特殊であるなどとはどこにも書いていないし、言ったこともない。身分には、こうした二つの形態があるということを指摘しているだけである。

 私の文章は、こうである。「身分は、日本の古代社会や近世封建社会のように法律でもって制度化される場合が多いが、日本の中世社会の中に存在したいくつかの身分のように必ずしも法律によらない、したがって制度化されない場合もある。前者が制度的身分であるのに対して、後者は社会的身分といってもよいだろう」(一九頁)。身分が制度化される場合が多いとは述べているが、それが普遍であるとは言っていない。多いということは、必ずしも普遍を意味するものではない。したがって、「制度的身分を普遍化することで、かわた身分の権力的創出論をフォローし、同時に近代を身分社会とみなして被差別部落民を非制度的身分と処理したため、今度はその身分の出所が問題となって近世からの連続性が持ち出される。これで被差別部落の近世政治起源説が完成する」と拙論の組み立てを説明されても、最初の「制度的身分を普遍化することで」という前提が、そもそも成り立たないのであるから、あとは片岡氏が勝手に想像された幻像にすぎない。

 最後に、片岡氏が「差別と賤視・不浄視の関係がわからない」と指摘していることに言及しておきたい。私は、賤視は「最下層(の人間)とみなされる」こと、不浄視は「穢らわしい(人間)とみなされる」こと(一七・二二頁)と規定し、そのようにみられる身分に属していることにより差別を受けることが部落差別であると述べ(二二頁)、かつ、野口道彦氏の見解に基づいて、差別とは「(1) 個人の特性によるのではなく、ある社会的カテゴリーに属しているという理由で、(2) 普遍的な価値・規範(基本的人権)に反するしかたで、(3) もしくは合理的に考えて状況に無関係な事柄に基づいて、(4) 異なった(不利益な)取り扱いをすること」(二三〜二四頁)としたのである。

 片岡氏が、批判ないしは疑問とされたところはまだ残っているが、重要な点は以上であると判断する。見てきたように片岡氏の拙著批判には、私が言っていないことを言っているかのように解釈し、その上に立って論評が行われているところが多く、はなはだ困惑した。私の表現が拙く、そのような解釈を許すことになった面もあると思うと、書くことの難しさを感じるとともに、読むことの難しさも痛感した次第である。