調査研究

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大阪の部落史通信・23号(2000.9)
高田陽介「三昧聖−畿内惣墓地帯の集団−」を読んで

森田康夫(樟蔭東女子短期大学)

 ここ数年来、中世から近世にかけての三昧聖集団に関する研究が着実な展開をみせている。かつてはえた・非人集団に対して雑種賤民などと研究者自身が曖昧な概念で、賤民集団のなかにも由緒ある集団とそうでない集団があるかのような語感で表現してきた時期があった。現実には石高を基準とした租税制度下の農耕民を軸とした近世社会のなかで、農民・都市民を含めた近世的生活空間において、日常的にそこに住む人間では営みえない非日常的事象が生起したとき、それを分担する人々を必要としてきた。このような人々は歴史的にも雑種賤民などというものではなく、農村・都市を通じて日常生活を営む人々の間に生ずる多様な非日常的空間で活躍する、生活の巡りをつとめる生活円環の陰の達成者であった。かわたが斃牛馬を処理することで穢意識を引き受けたように、三昧聖も死者を埋葬することで穢意識をを引き受ける職能であった。両者の相違は前者がきわめて職人技であったことに対して、後者は限りなく宗教的行為と不可分にあったことである。近世社会においてこれらの人々は残念ながら日常生活者からは賤視されたことから、多様な賤民身分と規定したところである。

 このような多様な賤民身分の一つとしての三昧聖集団は、近世的な日常空間に生きる農民・都市民から時間の経過とともに御坊と呼ばれたものが聖と称され、ついには煙亡とか隠坊などと呼ばれてきたところであった。もちろん当の集団内では中世以来の聖としての誇りを維持しようとしてきた。高田氏もその経過を論稿の初めに紹介されている。中世の聖が中世末期から近世初頭にかけて、三昧聖となるか村の道場の看坊になるかは紙一重であったと考えられる。この点はすでに吉井敏幸氏の「中世〜近世の三昧聖の組織と村落」(『部落問題研究』第一四五輯、一九九八年)に指摘されたところであるが、中世に各地を遊行した聖が中世末に戦乱の終結とともに定住化したとき、聖の分化が起こったのであろう。

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 さて高田氏は最近の三昧聖研究に関して近世三〇〇年余りの歴史のなかで、聖集団の歴史的な展開過程を段階的に把握する視点が不十分ではないかとされ、聖集団のおかれた社会的変化からみて、聖の存在形態を段階的に明確化することをめざされたのが本稿である。

 まずその第一段階は、中世末期にはすでに国単位で横のつながりを形成していた畿内の聖が、一七世紀末に東大寺が大仏再興事業を契機に勧進活動の拠点として公慶上人の手で龍松院が興され、この龍松院と畿内の三昧聖が勧進活動を通して本末関係を結ぶことになった。そして、これを契機に畿内の墓地に行基伝承にまつわる信仰が高揚し「行基開創の墓地と職分の継承」を由緒とする伝承が残されるようになったとされている。

 この時、なぜ三昧聖が国を越えて大結集したのかについて、吉井敏幸説では延宝検地への対応から結集したとするのに対して、高田説では一七世紀後半に幕府がキリシタン禁圧の治安対策として寺請制度を導入し、住民との間に寺檀関係を結ばせたり、また寺社に対して寺社改を通して寺社の公認化と各宗派所属の公認化を進めた。そのなかで宗派形成していない聖だけが、宗教者集団として取り残されたため、東大寺の権威に頼って集団化したのが龍松院との関係であったとされる。

 畿内の三昧聖集団は葬送儀礼を執行する特権として村方から米麦などの施与をうけ、さらに葬送に伴う報酬をうけて聖職を継承するなかで、一九世紀になると墓郷の村方は諸費節約を理由に三昧聖の個別的要求に対して、村落内の身分に応じて横並びでもって対処した。さらに村方側との間に墓寺境内の管理権や運営をめぐって、あるいは聖職の排他的独占受注権をめぐって対立する事態が各地で発生した。たとえば墓地をめぐってそこが年貢地か除地かの区別はあるにしても、村方の付属地とする主張がなされた。このような対立が一八世紀末から一九世紀にかけて頻発した。高田氏はそれを「従来のしくみの機能不全が覆いがたく進行・露呈しつつあり、各地のさまざまな地縁的・職能的集団は、この危機のなかでみずからの地位を保全するために、由緒を言い立てて自己主張を強めていた」つまり「由緒の時代」に入ったと規定された。

 聖はこの時から龍松院から綸旨の下付と色衣や阿弥号などで三昧聖集団の権威付けをねらい、宗教者団体としての公儀からの認定をめざした。これが第二段階であった。しかしこの試みは村方からの反対や大坂市中の三昧聖の協力がなかったために失敗に終わった。以上が高田論文のあらましである。

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 聖集団の動向からみて、近世においておよそ以上のような段階があったとされ、それは大筋として同意できるところである。しかし中世末期から近世にかけての聖については、国単位で集団化していたとされるだけで、いま一つ史料の関係もあるが不鮮明な印象をうける。たとえば中世末期の摂河泉の場合、聖はどこに生活の場を持っていたのであろうか。中世惣村の中で居を共にするものではなかった。住むとしたら惣墓のなかかその周辺ではなかろうか。現に泉州中組の場合、聖の屋敷地は大体そのようであった。大坂市中の千日墓所では墓のそばの聖垣外に住んでいた。

 ところでいま一つ聖が定住していたところに夙があった。近世の夙村に聖職が二軒ある村があった。すでに『一遍聖絵』にも夙民の葬送儀礼に携わっている風景が描かれていた。この夙は中世末期から近世にかけ、春日神への賦課金の荷重を耐え難いものとして奈良坂の本宿から独立運動を展開していた。当然そのなかには聖も含まれていた。とすると畿内の聖は中世末期に一旦は興福寺を背景とする本宿体制から自立したということである。現にこの頃から夙では興福寺傘下の春日神から比叡山傘下の日吉社を奉じるようになった。いまに残る夙の村々の日吉社・比枝社・八王子社などがそれである。そして多くの聖たちは幕藩権力から墓地の除地などが認められることで、村民との関わりだけで共存する途を選んだということである。また夙以外の聖も時宗教団から自立して、村との関係を重視したのではなかろうか。しかしそれらが幕藩体制による新たな統制を機に、新たな権威のもとに再結集がはかられた。そこではこれまで共存してきた村民からの再度の自立化がめざされたということではなかろうか。

 墓地をめぐる行基伝承については近世に入ってからの関係ではない。たとえば河内国八尾『常光寺縁起』(応永六年〈一三九九〉)には、同寺が墓所として行基が起こした二五の廣檀の一つであったことの伝承を伝えていた。近世における東大寺復興事業は行基を持ち出すことで勧進効果があがり、聖は行基伝承を自分の身に引き寄せることで、聖武天皇の綸旨を獲得した身分として、その由緒が正されると考えた。龍松院はその結び目にあった。

 一八七一(明治四)年、堺県の人別改の雛形に「穢多・煙亡・非人」とあることをめぐって、聖職が穢多の下に位置づけられ、しかも聖職の由緒を無視された記載例であるとして、その由緒を申立てた。中世末期から近世にかけての聖は、ひたすら経文を唱える村の道場の聖か、生活の資にありつきやすい惣墓の聖かに分化した時から賤視という受難の道を歩まされたのであった。

(高埜利彦編『シリーズ近世の身分的周縁1 民間に生きる宗教者』所収、吉川弘文館、二〇〇〇年六月)