調査研究

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大阪の部落史通信・24号(2000.12)
大阪における明治初期の非人施策について

中島智枝子(大阪の部落史委員会委員)

はじめに

 大道芸とは「寺社境内、明地および街道で芸技を行ない生活のために米銭を乞うこと、およびその芸技」で、「古く奈良、平安時代に始まった」とされる(高柳金芳『乞胸と江戸の大道芸』柏書房、一九八一年)。大道芸といわれているものには江戸時代には門付芸、千秋万歳、放下、人形まわし、講釈はじめ歯磨きや薬を売る手段として行われる居合抜きや独楽廻し等があった。

 中尾健次氏によれば江戸では非人の生業の一つに浄瑠璃語り・物まね・袖乞いという大道芸があげられており大道芸を非人が行っていたという。しかも、大道芸を行っていたのは非人だけではなく、乞胸や願人もいた。乞胸は、身分は町人であるが大道芸稼業を行う限りは非人頭車善七の支配を受けていた。願人は僧侶ということでは寺社奉行の支配を受けているが居住地からは町奉行の支配を受けるという身分的には「ややこしい」存在であったという。「大道での呼び売り屋」である香具師は大道芸をやっている限り乞胸頭の支配に入った時もあるという。そして、江戸時代の芸能をたどる時、歌舞伎の存在を無視できないが、歌舞伎と大道芸の関係は「大道芸を生業とする人びとを追いかけると歌舞伎にぶつかり、歌舞伎を調べていくとこれまた大道芸にぶつかる」というように密接不可分な関係があったということである(中尾健次『江戸の大道芸人』三一書房、一九九八年)。

 江戸で繰り広げられたこれらの大道芸は「天下の台所」として賑わう大坂でも見られたと考えられる。解放令が出されるまで、維新期における大阪の大道芸にアプローチするため、先ず、大阪府域の都市を代表する大阪市中および堺における非人の実態を明らかにするため大阪府、堺県において採られた非人身分に対する施策を大阪府布令(大阪府史編集室編『大阪府布令集』一、大阪府発行、一九七一年)および堺県布令(山中永之佑編『堺県法令集』一、羽曳野市発行、一九九二年)を通して見てみたい。そして、維新期、大阪府域における非人身分と芸能の関わりを探ってみたい。

一 大阪府の施策

 明治新政府が発足した直後の一八六八年(明治元)二月二十四日、大坂裁判所はそれまでの四ヶ所長吏(天満・道頓堀・鳶田・天王寺)を非人小屋頭と改称した。この時出された布令では、「長吏共より、是迄之通御遣ひ被成下度旨、委細願之趣有之処」とあり、四ヶ所長吏側が大坂裁判所に対して従来通りの処遇を嘆願していることがわかる。それに対する回答という形で「願之通ニ者難聞届」としたうえで、四ヶ所長吏を非人小屋頭と改称する旨を告げ、さらに、それまでの捕縛の仕事は、市中取締付属方である旧与力・同心に報告しその指図によることとした。同時にこの時「町中吉凶ニ付貰ひ物之儀」は「仕来茂有之趣之処」であるから、これは町役人が取り集め、自分たちだけで「貪ヶ間敷」きことのないように小屋頭が取締まることとした。ついで、同年六月二十一日、非人小屋頭を四ヶ所年寄と改めている。四ヶ所長吏側の嘆願がどのようなものであったのかを知る手懸かりはない。前記したように、おそらく、四ヶ所長吏側が、幕府から明治新政府へと政治支配者が変わる中で従来通りの処遇を求めたものと考えられる。

 大阪府のこの後の非人に対する施策であるが、二年後の一八七〇年(明治三)六月、管下に籍のある非人・乞食には木札を与えている。それと共に、病気で行き倒れの「非人体」の者があれば、町内より納屋下非人に申し出て、札の辻町救恤場に収容し、養生させることとした。この後、一八七一年(明治四)一月二十八日、無札の非人・乞食への施しを禁止する布令を出している。

 一八七一年(明治四)一月、大阪府では捕亡掛を取締番卒と改称し、二月三十日、市中の家持、借家人に対して四ヶ所長吏へは彼らの役務(断獄監察取締)に対しては家持、借家人から徴収した金を給料として支払うのだから出金に協力すると共に彼らが金品を要求した場合は訴え出ることを命じている。ついで、同年四月四日、取締番卒服務規律を制定し、取締番卒が市中の警護を行うことにした。無札の非人の取締りや病気になった非人や乞食が人家の軒下に坐臥している場合は立ち退かすことも取締番卒の仕事とされた。このことは、これまで四ヶ所長吏が行っていた仕事が取締番卒の仕事となったということである。これによりようやく大阪府における警察組織が整備され出したといわれているが(大阪府警察史編集委員会編『大阪府警察史』第一巻、大阪府警察本部発行、一九七〇年)、四ヶ所長吏およびその配下の非人はどのような処遇を受けたのだろうか。解放令が出された直後の九月に、大阪府は「『四か所』を廃止してその長吏手先一〇〇名を取締番卒として採用した」(『大阪府警察史』第一巻、八八頁)という。解放令により非人身分がなくなったことをうけて採られたものと考えられる。そして、これにより警護の仕事についていた四ヶ所長吏およびその配下は警察組織の一員に組み込まれることとなった。非人身分が廃止されるに伴い、以後四ヶ所に関する布令は見られない。ところで、取締番卒は一八七二年(明治五)三月、取締羅卒、ついで、翌年七月には番人と改称され、一八七五年(明治八)四月に再び羅卒と改称されている。

 この後も、大阪府では一八七二年(明治五)四月、乞食に食べ物等の施与を禁止する布令を出しているが、その中であわせて、「先般非人之唱被廃候上ハ、辻芸・門芝居等賤敷遊業を以渡世いたすべからざる筈ニ付以来町村に於て厳重停止可致事」としている。非人の称が廃止されたのだから、辻芸や門芝居のような賤しい「遊業」をするなという。これらの芸能を賤しい「遊業」と見ていたことと共にそれらを行っていたのが非人身分の者であったことがこれからわかる。

 近世期の大坂の非人について『守貞謾稿』(喜田川守貞著・宇佐美英機校訂『近世風俗志』(一)、岩波文庫、一九九六年)では次のように記述されている。四ヶ所長吏配下の非人については「多くは小屋に住し、市中に出て銭を乞ふことあれども、食を乞はず」(『近世風俗志』(一)、三三四頁)とあり、四ヶ所長吏の警護の仕事について詳しく記述されている。さらに、大坂の垣外(かいと)は、江戸の川岸等に小屋ある非人同様、市民の吉凶に当たっては「家に応じて銭を乞ひ、二、三百文あるひは一貫文、あるひは金一、二分も与ふ。また五節句には十二銭を乞ふことなり。」(『近世風俗志』(一)、三四一頁)とも記述されている。さらに、銭を貰った家に四ヶ所が配る札に



一 節季候

一 大黒舞

一 鳥おひ

右之通難有受納仕候、以上

丑正月

四ヶ所印□

何屋様

とあることが記されている(『近世風俗志』(一)、三四七頁)。この四ヶ所札にもある通り、節季候、大黒舞は四ヶ所配下の非人身分が行う芸能であったといえる。ところが、節季候や鳥追は『守貞謾稿』では大坂では見られなくなっているとあることからも、『守貞謾稿』が書かれた時期の一八三七年から一八六七年(天保八〜慶応三)にはすでに行われなくなっていた。

 大阪府が出した非人関係の布令を見る限り四ヶ所長吏の下に組み込まれていた非人は市中の警護を中心とする仕事を行っていたこと、また、多くの非人が辻芸、門芝居などを行っていたことがわかる。

二 堺県の施策

 堺県では一八六八年(明治元)六月、四ヶ所小家頭(七堂浜・悲田寺・北十万・湊村)並びに手下に対して持ち場の町々より「定式受用物」以外の物を受け取ってはいけないことを達している。ついで同年七月十一日、長吏を非人小家頭と改称し、「日割銭・御祓・わらず代・くつ代等」の「定式受用物」は従来通り受け取ってもよい。「大黒舞・節季候」は「先規之通」り、定番の者が受け取ることとした。町家に吉凶があった時に受け取ることを禁じ、表口の番については町組頭より依頼があった場合は手下の者を遣わすこととした。

 堺県の達からは、「毎日一度市中見廻り」とあるように四ヶ所小家頭は番人役を担っていたこと、大黒舞、節季候は四ヶ所長吏配下の非人が行っていたこと、しかも、大黒舞、節季候は定番とあることからも、それを行う者が決まっていた。

 翌一八六九年(明治二)七月五日、大阪よりも一年早く、堺県では非人・乞食・物貰いに対して取締りのため「印札」を渡すこととし、さらに、無札の非人・乞食・物貰いに対して家持や借家人が施しをすることを禁じている。この後、一八七〇年(明治三)六月、村々に非人調査を命じ、帰村の非人には鑑札を渡すこと、無札の非人には施しを与えてはならないとした。翌七月二十五日には、乞食に対しても鑑札を与え、無札の乞食に対しては施しを与えることを禁止した。

 この後、堺県では、地方掛が夙・煙坊・非人の居る村に対して「高反別・家数・人別取調」を命じている。ついで、一八七一年(明治四)二月十二日、四ヶ所長吏銭について町々で家別に調べることを達している。

 堺県では、翌三月六日、堺廻り四ヶ所長吏並びに手下を廃止し、改めて廻り方組頭、廻り方小頭、下廻り方を置き、それぞれ四人、二人、一二人を選定することとした。彼らに対しては月給を支払うこととし、これまで彼らに支払っていた「町々ニテ日銭其外節季候・大黒舞・皮踏代・御祓装束代」は町年寄が取り集め、年寄から渡すこととし、吉凶についても銭を乞うことは一切してはいけない旨を達している。

 堺県の非人身分に対する布令を見る限り、時期では前後するものの大阪府と同様、四ヶ所長吏の改称、非人札の交付、無札の非人・乞食に対する施与の禁止、四ヶ所長吏および手下が勝手に従来のように市民から金銭を受け取ることの禁止が講じられている。そして、これらの布令からも堺県域の非人身分は大阪府と同様、警護の仕事を行っており、芸能と関連する事項では節季候、大黒舞は非人の芸能として決まった者が行っていた。

むすび

 大阪府、堺県が維新期に出した四ヶ所長吏および配下の非人身分に対する布令からわかることは、彼らが担った市中警護という警察機能を新政府側がどのように把握し、新たな制度を編成しようとしたかということにあったといえる。

 一方で、新たに生まれる非人や乞食をどのように把握するのかという問題に直面していた。札を交付して管理する方針を採り、無札の非人や乞食に対して施しを禁止する施策が先ず講じられた。ところが、非人や乞食を余儀なくされるのは生活困窮が原因であるのだから、このような方法は根本的な解決策ではない。大阪府が生活困窮者対策を講じるのは、解放令が出される直前の一八七一年(明治四)六月のことである。鰥寡・孤独・廃疾および貧窮者を対象に授産施設の大貧院(明治五年一月十八日、授産所と改称)を設置した。京都府では、一八七〇年(明治三)閏十月窮民授産所を設置し、窮民対策を講じ始めている。大阪府で開始されるのは、京都府に遅れること八か月後のことであった。

 大貧院設置の布令の中で、「紡績縫針ハ女之職業、知らて叶ぬ事ニ候処、当所婦女、幼より絲竹之稽古而已心ヲ寄せ、成長之上も、遊浮之気去らす、遂ニ者淫奔之基となり」とし、「父母其子ヲ教育するに、日用渡世肝要之事ヲ以テし、遊芸抔を跡ニ廻し、活計之工夫ヲなし、貧院ニ入らぬ心ヲ付べく事」を説いているが、これからも当時の為政者が芸能をどのように見ていたかを窺うことができる。そこで展開されている遊芸観は、遊芸は役に立たぬだけではなく、「淫奔之基」であり、身を滅ぼす基であり、有害なものであるというものである。遊芸をこのように見たのは何も大阪府に限ったことではない。京都府でも窮民授産所設立にあたりその資金として「遊興浮業」の者から徴収することにした。対象となったのは、髪結渡世を遊興浮業と捉えていたことは現在では考えられないことであるが、角力、遊所、芝居、揚弓、吹矢、からくり、髪結渡世であった。このような為政者側の遊芸観をもってこの時期の芸能に対しても施策が講じられたといえるのではないだろうか。

 そこで、次の機会に、この時期の非人身分が行った辻芸、門芝居を始めとする芸能に対して大阪府、堺県がどのような施策を採ったのか見ることで維新期の大阪における芸能について見てみたい。