調査研究

各種部会・研究会の活動内容や部落問題・人権問題に関する最新の調査データ、研究論文などを紹介します。

Home > 調査・研究 > 大阪の部落史委員会 > 各号
前に戻る
大阪の部落史通信・24号(2000.12)
泉南地域の中近世移行期の部落関係史料について―中家文書への疑問― 吉田徳夫(関西大学)



 中世から近世へ移行期における賤民史上の最大の問題は、近世部落の起源論を如何に理解するかである。実証的にもまだまだ解決されなければならない問題が残っている。この問題に決着がついたかのごとき部落の中世起源論が出されているが、それは自明のことだとは言えない。ここに取り上げる問題は、三浦圭一が紹介し、研究してきた中世末期の泉南地域の『中家文書』についてである。

 一九九七年に泉南地域の被差別部落である貝塚島村から、中世と近世の牛・鹿の動物の埋葬遺跡が発見された。地元の研究者は被差別部落が中世からの連続を証明するものと見ているようだが、識者の話を伺っていると、同遺跡の特徴は、出土した多量の牛と鹿の骨は酸性土のため相当の腐食が進んでいたが、土壙墓の内部に埋葬された牛の骨だけは、埋蔵状態も良く、骨の原形を留めている。その骨と一緒に黒灰色の瓦器椀と葉釜が出土し、その地層は約十五世紀に相当すると見られると言う。すなわち、近世の骨捨て場の地層と中世の牛骨出土の地層との間には約二世紀近い時代の断続があると言う。また中世の牛骨遺跡は土壙墓と称するように丁重に葬られており、近世のような骨捨て場ではない。この断絶と相違を評価すると、牛骨の出土と言うことに基づいて、部落の中世起源説をこの遺跡からは裏付けることはできないと言える。



 泉南には、著名な『中家文書』という戦国期から近世にかけての土豪の文書群がある。例えば、時藤知之「中世後期における瓦屋・鶴原嶋村の考察」(『部落解放研究』第八一号、一九九一年)、藤原宏「中世根来寺と泉佐野市域の賤民」(『部落解放研究』第一一一号、一九九六年)の研究がある。特に藤原の研究は三浦説を継承しつつ、「農業を主要産業とする嶋村民衆が、鶴原嶋村の一部に中世『かわた』職人がふくまれていたことを根拠として、まず鶴原嶋村住民総体が血統原理によって『かわた』=『穢多』に身分貶下された。次に鶴原嶋村住民と信仰を同じくし、相互保証体制にあった瓦屋嶋村住民総体が、鶴原との血統的なつながりを想定されて、これまた身分貶下された。中世の『かわた』職人=皮革業者が、そして彼らだけが横スベリに近世『穢多』に身分貶下されたわけではない。(中略)近世身分制の固定化の基準が血統原理であることの再確認でもある」と述べる。中世と近世とでは社会秩序の原理に相違があるとは認めながら、秩序変動の性格と原因とを明らかにせず、あくまで職業問題にこだわり、論証もされていない「中世のかわた職人」の存在を想定するという指摘である。

 藤原が職業問題にこだわる理由は、恐らく先行する三浦の研究を継承する関心が高いためであろう。三浦は近世の旦那場が中世に連続するという説を打ち出した(『日本中世賤民史の研究』部落問題研究所、一九九〇年)。三浦は『中家文書』の紹介と研究に従事し、次のような見解を示した。すなわち、「賤民である嶋の二郎五郎が先祖相伝していた旦那」である日根郡内鶴原と朝社との二地域を三貫八百文の代価で根来寺成真院に売却したという。鶴原・朝社の「タンナン」は「同ススメノハトモニ」とあるように、これを「勧めの場」と解釈し、「勧め」という表現から判断して、「神明社の勧請・伊勢代参講の勧進、さらに神札等の売却配布を勧めることを内容とするものである」と推定した。さらに、この「勧めの場」を「同時に斃牛馬処理圏」と重なっていると考えてよかろう」とし、「この旦那職の内容は、中世賤民の非農業的職業たる斃牛馬処理・神札呪札などの販売・わたり芸能・代参講結成運営の援助・非人乞食の取締・雪踏直しとか皮革製品の販売などにかかわるもの」(「一五〜一六世紀の人民闘争」、『前掲書』所収、初出は一九六九年)と論じた。 しかし、様々な留保をつけながら述べられてきた三浦の見解が、「一六世紀における地域的分業流通の構造」(『前掲書』所収、初出は一九七六年)では、同一の史料の解釈を、「結論的にいえばすでに述べたこともあるように、この『旦那』とは斃牛馬処理のことである」と理解が短絡的になり、論理的に飛躍が見られる。鶴原が近世部落であることから、逆に類推して旦那場を斃牛馬処理圏と解釈したとしか思えない。歴史的な結論をあまりにも早く出しすぎたように思う。



 私は既に「中世の被差別民」(『新修 大阪の部落史』上巻、「大阪の部落史」編纂委員会編集・発行、一九九五年、所収)で、三浦の論証には多少無理があるのではないかと思い、次のように指摘した。「永禄五(一五六二)年の売券の端裏に、『ツルハラ エッタより』と追記するものがある。三浦はこの追記を買得者の中左近の手に成るものとしているが、その論拠を示していない。さらに『この村だけ固有にみられるのは、『旦那場』の所持とその売券である』と述べ、近世部落に見られる死牛馬の処理圏との連続性を考えている」(『前掲書』、八九頁)と私の解釈を交えて紹介した。さらに私見を加えて、「旦那場が中家に売却されたということは、近世と同様の旦那場でないことを示し、旦那場の所有について身分的規制がなく、自由な売買が行われていたことを示す例となる」と解釈し、さらに留保をつけて「中世における『旦那場』が直ちに死牛馬の処理圏を意味せず、熊野信仰に基づいた御師の『旦那場』である可能性」(『前掲書』、八九頁)を指摘しておいた。

 『新修 大阪の部落史』で「中世の被差別民」を執筆したときは、近世の賤民呼称をそのまま記載する『中家文書』群の信憑性そのものに疑問を感じていた。例えば、時藤が言うように、嶋という地名が後の被差別部落の地名に連続し、賤民団体そのものに連続性があるならば、その売り主である与三郎自らが当事者として作成した天文十五年(一五四六)の売券(『中家文書』五五三号)に「鶴原エンタ村」と記載するとは思えないのである。近年『熊取町史』編纂に関連して『中家文書』を詳細に分析した注目すべき藤田達生の研究「太閤検地と中世売券―『中家文書』の謎―」(『中・近世移行期の西国と東国における検地と村落に関する比較研究』、文部省科学研究費報告書<研究代表者 本多隆成>、一九九八年、のち加筆・訂正し同著『日本中・近世移行期の地域構造』校倉書房、二〇〇〇年、所収)が現れ、改めて『中家文書』を再検討する必要が生じた。

 藤田によれば、『中家文書』群の中世の「売券の過半が、数種類のグループ―同一筆跡で、ほとんど同一表現であり、ほぼ同一寸法で等質の料紙が使用されているもの―に分類できる」(『前掲書』、一八〇頁)と指摘し、同文書中の中世文書の過半数に及ぶ四百七十二点、中世『中家文書』の約五七%を占める文書が近世初頭の写であることを論証した。藤田が疑問とした文書を検討すると、近世賤民の表記を持つ売券群が全て写の文書に見受けられるということになる。写であるから信憑性に欠けるという訳ではないとしても、写の文書が忠実に原文書を復元していると考えるわけにもいかない。藤田は、そうした例を一つあげ、新たに中家から発見された正文書である大永七年(一五二七)の中世売券と、写である大永七年の売券とでは、文字記載に明らかに相違がある、と指摘している。復元された写の文書は書き換え、或いは書き加えを経て作成されたといえる。

 また、藤田は現状の『中家文書』の成立過程を推定して、天正十三年(一五八五)の戦乱により「中家も(根来衆)成真院と同様に炎上したのであって、それ以前に持ち出すなどして焼失を免れた文書の大部分は、やはり売券を中心とする地主経営に関係する文書であったのであろう。それと(中)盛重が持ち込んだ成真院分の売券と、検地に備えて復元あるいは操作した大量の売券が、一括して伝来した」(『前掲書』、二〇一頁〜二〇二頁)と理解している。妥当な解釈であると思う。さらに文書の写の作成時期についても、天正十三年に実施された太閤検地のために準備して作成されたとしているが、いかにも戦争直後となり、文書の写の作成を急ぐにしても、そうした時間的余裕が果たしてあっただろうかとも思う。むしろ文禄検地に合わせて作成されたとも考えられる。何れにしても『中家文書』の写の作成が何時であったかさらに研究を深める必要があるだろう。



 旦那場に関する三浦の研究は、『中家文書』に対する信憑性の上に立脚した研究であるが、その根拠が揺らいだわけであるから、旦那場と斃牛馬処理圏とを短絡的に同一視する見方は訂正される必要がある。既に私見として述べたが(「中世末期の聖と寺院社会―近世賤民の起源によせて―」、『同朋大学仏教文化研究所紀要』第一九号、一九九九年)、旦那場は熊野先達の旦那場であり、これを意図的に斃牛馬処理圏と結びつけないことであろう。やはり、初期の三浦の研究が様々に留保をつけて考えていた点を再検討する必要がある。

 近年、熊野先達の研究をまとめた宮家準『熊野修験』(吉川弘文館、一九九二年)は、泉南地域の先達も取り上げ、部落史とは異なる方法で研究を進めている。その研究は『熊野那智大社文書』(全五巻、続群書類従完成会)などに基づき、特に同史料集の第五巻に収められた「実報院諸国旦那帳」には、三浦が取り上げた鶴原や朝社の旦那場も記載されている。宮家はこうした先達の類型化を試みたなかには、明らかに中世賤民の一態様を示すと考えられるものもあるとする。宮家の言を借りれば第二類型として取り上げた「拠点を持ちながらも、各地を遊行してその先々で旦那を熊野に導く遊行先達」であり、第三類型としては「各地の霊山・社寺や市・港に依拠していた在地先達である。この中には俗人の先達」も存在したという。『中家文書』にみえる嶋二郎五郎もそうした俗人先達の類型に当たるといえよう。付言して、「そのほかの類型としては、念仏聖、比丘尼、六十六部、十穀聖、陰陽師等」が認められるといい、高野聖の中にも熊野先達がいたともいう。

 近年は宗教史に基づいた賤民史研究が深められてきているが、これに対して従来の賤民史研究は世俗主義的な解釈に基づいた研究であったといえる。こうした反省の上に立って考えれば、まだ中世賤民の実証的研究が少なく、また卑賤視されたといわれる皮剥などの職種についても研究が進んでいるわけではない。改めて中世の特異な宗教生活と職種との関係を考慮に入れて、中世賤民の全体的な評価を行う必要がある。職業問題に関心を絞るとしても、職業を世俗主義的に解釈する以前に、中世宗教の特質を踏まえて、賤民とそれを取り巻く職業や人間の集団を考えるべきであろう。